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「……今、なんと?」
「だから、そなたを 《《あちら》》に|遣《や》ると申したのだ」
下げていた|頭《こうべ》を恐る恐る上げると、『|彼《か》の方』は変わらず、|憮然《ぶぜん》とした顔をしていた。
「まことでございますか」
「そうだ」
そして、寄せていた眉根をわずかに上げる。
「ただし、忘れるでないぞ。お前は———」
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どこかの部屋に、二人の人影がある。
「それでね? この子ったら、こーゆうことしてるんだよ? 笑えるよねぇ」
好きだという本のページをぼくに見せながら、彼女はそう喋っていた。
ぼくは微笑んだ。彼女が笑っているからだ。
どこからか、少しだけ風が吹いて、彼女の横髪をなぞっていった。
髪と髪の隙間から垣間見える彼女の目は、赤く腫れている。
この世界に来て、99年と362日が経った。
この間、老いることも死ぬこともないぼくの体は、月日が経つたびに別の誰かに姿を変えて放浪している。
いろんな人と出会った。関わってきた。
生き別れても、死に別れても、疎遠になっても、未練などなかった。つらくも悲しくもなかった。そして、しばらくしたら忘れた。
そういうものだと思ってた。
———ただ1人を除いて。
隣にいる彼女の声を聞きながら、頭の中のカレンダーを呼び出す。
その日数を数えた。
それまでに。
それまでに、彼女は———。
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「ねえ、朝だよ? ね、起きてよ」
彼女の部屋のドアを開けながら、ぼくは目を細めた。
もう朝日とは呼べない日の光が、閉ざされたカーテンの隙間から漏れている。
「ねえ、——」
「嫌……!」
もう一度声をかけると、耳を塞いだ彼女が小さい声でそう叫んだ。
「起きたくないよ……!」
目から大粒の涙が零れる。———まだ、目元は腫れているのに。
耳を塞いだ彼女の手が震えている。急速に紅と温かさが失われていく。
「大丈夫。……大丈夫。」
そっとベッドに腰かけて、彼女の髪を撫でた。
涙からか———湿ったそれが、さらさらとぼくの指の隙間から流れていく。
「ここにいる。大丈夫だよ」
呪文のようにそう呟き続ける。
しばらくして、すう、という寝息が聞こえてきた。
顔を覗きこむと、彼女は死んだように眠っていた。
目尻から、涙が つう、と流れては消える。
少しだけ漏れる日光が、彼女の頬を照らしている。
そっと髪を撫で続けた。
そうすると彼女が落ち着くのを、ぼくは知っているから。
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彼女と、どこで出会ったのかは覚えていない。
他と、その他大勢と同じように、流れのままに出会ったんだと思う。関わった人と、どうやって出会ったかなんて いちいち覚えちゃいない。
気がついたら彼女は隣にいて、ぼくは彼女の側にいて、それが日常になっていた。
よく泣いて、|隅《すみ》で|蹲《うずくま》る人だった。
彼女のどこが好きなのかと聞かれても困る。
好きなところなんてないから。強いて言えば、存在。
ぼくに 安心を、喜悦を与えてくれる———そんな存在。
冷たくても暖かくても、胸に染み込むみたいな感じだ。
姿を変えながらこの世に留まって、こんなことは初めてだった。
最近は、彼女のことを想うたびに、頭の中にカレンダーを呼び出している。
ここが ぼくのいた『無の世界』であればよいのに。この世界は、無情だ。
頭の中にカレンダーを呼び出す。
あと。———あと、1日。
今日が終わったら、今日で、ぼくは いかなくちゃいけない。
頬に、温かいような冷たいようなものが流れた。
ああ、泣いてるんだ、と気づくのに、しばらく時間がかかった。
「———ねぇ……えっ! どうしたの?」
その声にハッと我に返った。
目の前に、彼女がいた。それはそうだ、ここは彼女の部屋なんだから。
「なん、でもないよ」
そう言いながら 悟った。
もう打ち明けなきゃいけないんだって。
だって、いつまでも隠し続けられない。———もう最終日なんだから。
そうじゃないと、突然、ぼくがいなくなってしまうことになってしまう。
「嘘。なんでもないんじゃないって、顔に書いてある」
そう言いながら、彼女はベッドに座り込んだ。
やっぱそう言われるよな、とぼくは頭を掻いた。
天井を見上げる。灯りはついていない。
どうやって話を切り出そうか、と考えて。
「……ぼくが、どうやってこの世に来たか、知っている?」
そう、口を開いた。
隣を見ずとも、彼女が首を振ったのが分かった。話してないのだから、当然だ。
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この世———という言い方はおかしいが、『無の世界』というものが存在している。
『時間』『空間』『情緒』『存在』———そのような概念が、一切無い場所だ。もしこの世界の人間が迷い込んでしまえば、一瞬で『無』と帰すだろう、文字通り。
ぼくは その『無の世界』にいた。
そこの世界の住人は、『|彼《か》の方』の許しを得られれば、『存在』を与えられて 別の世界に行くことができる。———今の、ぼくのように。
そうなんだ、じゃあ私、あなたの世界に行きたいな。
どこまでも綺麗に澄んだ彼女の声が、ぼくの鼓膜を|揺《ゆ》する。
ひゅっと息を呑んだ。胸をつかれた、そんな気がした。
しばらく呼吸を止めて、また話を続ける。
ただし、別の世界に行くには、制約がある。行く世界によって、それは違うけれど。
「……何?」
「えっと……ぼくの場合は、ここに来て100年経ったら、帰らなきゃいけない」
それで、と言う自分の声が|掠《かす》れて聞こえる。
———この先は、言いたくなかった。
言ったら、言ったら。終わりになってしまう。もう二度と、逢えなくなる。そう思った。
膝の上にきつく結んだ手に、一つ、|雫《しずく》が落ちた。
「それで、もう……99年と364日経ってるんだ」
彼女の表情は見えない。
「ぼくは、今日が終わったら———帰らなきゃいけない」
最後の言葉を、ちゃんと言えたかどうか、分からなかった。