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外に出て、空を見上げながら、考える。もうしばらくしたら、そんなこともできないから。
『この世界』における自分の存在——かたちは、もうすぐ消える。
消えても、ぼくはまた『無の世界』に戻るだけ。消えるわけではない。謎かけみたいだ。ややこしい。
彼女の存在は、かたちは———いったい何なのだろう?
「あ……」
ガタンと音がして、誰かの声がした。
振り向くと、彼女だった。夜で暗いからよく見えない、でも確実に薄着なのは分かった。
もう外は、ここは、冷蔵庫の中よりも寒いのに。
「どうしたの」
呼び止めようとする。———反応はない。
「ねえ」
走って、ぎゅっと腕をつかむ。|滑《ぬめ》ったような感覚がした。手がわずかに濡れたのが分かった。
「ねえ、その格好じゃ凍えちゃうよ」
彼女が やっと振り向いた。
ギュッと口を引き結んでいて、でも逆光で泣いてるのか泣いてないのか分からなかった。
でも、———握った腕の温度は、あまりにも冷たくて。
とても、ついさっきまで室内にいたとは思えないくらいだった。
「せめて何か羽織って。ほら、ぼくの上着あげるから」
言いながら彼女の肩に掛けた。
「ごめんね」
どうしてもそう言いたかった。
黙っていてごめん。逃げていてごめん。もっと早く、言えばよかったね。
「ね、何か話そう」
これで最後なんだからさ。
もう夜は更けている。
タイムリミットまで、もう1、2時間くらいだ。
---
「……ねえ」
二人で無言で歩いていて——というよりかは ぼくが腕を引いているような感じだけど——彼女が話しかけてくる。
「私も、あなたのところに行けないの?」
振り返ると、彼女は変わらず口を引き結んでいた。
何かを言おうとして、でも口から漏れるのは白い息だけだった。すー、ふー、すー、ふー、という荒い息遣いが聞こえる。
ふ、と呑み込むような音が聞こえて、やっと彼女が泣いているのに気づいた。
地面に落ちる涙が、ゆらりと光る路上の電灯の光に反射して きらりと|煌《きら》めく。
「……連れていけない。ごめんね」
ぼくは ふるふると|頭《かぶり》を振った。
「どうして……!」
嫌だ、と彼女は ぼくの腕を揺すった。
「言ったでしょ。きみが行ったら、『無』に帰してしまう。あの世界の人間じゃないから」
「っ、私は———」
歩みを止めて、ぼくは上を向いた。新月。月は出ていない。街の明かりのせいか、星も見えない。
ただ、暗闇だけが広がっている。
「連れては行けない。———きみを『無』にしたくないから」
カチャリ、と頭の中のカレンダーが、次の日付を指す。
脳に、ピリリとした痛みが走る。
もう、帰らなきゃいけないかもしれない。
「ね、おいで、もう時間がないんだよ」
---
帰るためには、制約の時までに『かえる』と意思表示しなければいけない。
制約を守るために、ぼくは『かえる』と言わなければいけない。
そうしないと、———ぼくは『無の世界』に帰れなくなる。
この世界からも あちらの世界からも、ぼくは消えてしまう。
制約を守らなければいけない。
でも———
消えたって構わない。どちらにせよ、ぼくは彼女とは逢えなくなるんだから。
もう声も聞けない、顔も見られない。
『好き』とも『愛しい』とも、思うことさえ、できなくなる。
それくらいなら、せめてもっと一緒にいよう。
———『制約』を破ってでも。
どうやってそうなったのか、ぼくたちは走り出していた。
走っているのか、逃げているのか。
逃げているのならば、何から逃げているのか。
「ねえ、ひとつだけ、言っていい?」
顔を上げた彼女の瞳に自分が映っているのを見ながら、口を開いた。
「愛してるよ」
---
スル、と何かが|解《ほど》ける音がした。
彼女の方向を見ると、驚いたような顔をしていて———そして、顔を歪めた。刹那、次から次へと、その目尻から涙が零れ落ちていく。
思わず自分の体を見て、分かった。
———四肢が薄れ、半透明になり、透明になり、消えている。
ああ。
ああ、もう、時間なんだ。
もう走れない。四肢がないから。
ぼくはその場に崩れ落ちた。
彼女が駆け寄ってきたのが分かった。
ぼくの体に触れようとして、その手は簡単に空中をすり抜ける。
泣いている。
———泣かせたくなかったのに。
ねえ、笑ってよ。
最後くらいはさ、もう一度、笑顔を見せて。
そんな願いも、祈りも、もう彼女には届かない。
残る口で歌う。歌い続ける。
胴体も、頭も薄れている。きっと、彼女には歌声も届かないだろうけれど。それでも。
形にあったのなら、きっとぼくは、彼女と同じように、泣いているんだろう。
ごめんね。
もっと早く、出会えていたら。
もっとぼくが、器用だったら。
でも。———もう、いかなくちゃ。
形にあったのなら、きっとぼくは泣いているんだろう。
幸せに楽しんでほしかった。
幸せが見えてほしかった。
幸せに死んでほしかった。
そう言って、そう泣いて、ぼくは歌い続ける。
ぼくの頭が、口が、透明になって消えていく。
きみは、どんな顔をしているのかな。
忘れないように、きみのかたちを想い描く。
空中に粒も残らず、ぼくのかたちは消えていく。
———ありがとう。