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重なる
朝の光が窓を淡く染める。私はいつも通り目を覚ました。時計を見れば、まだ7時前。平凡な日常が始まろうとしている。
しかし、今日の静けさには、どこか違和感があった。隣の部屋から、聞き慣れた声がしたのだ。声は、笑っていた。
「また、あの人か。」
私はその声を覚えている。数年前に引っ越してきた、隣人の女性。彼女は日常の小さな出来事に、いつも大げさに笑った。僕はその声が、時々心地よく、時々不快に感じていた。
今日はなぜか、耳を澄ませずにはいられなかった。声は楽しげだが、どこか虚ろで、切実な響きを含んでいた。
私はコーヒーを淹れながら自分のことをふと、考えた。
この数年、私はただ流れる時間に身を任せ、毎日をやり過ごしてきた。仕事、帰宅、睡眠。目に見える変化は何もない。けれど、隣の部屋の声には、確かに何かを求めていた。生きることの手触りを、必死に探しているような。
確かめられるならば、誰でもいい。たまたまそれが隣人であったと言うだけだ。
ふと、私は思い立った。今日は、仕事を休もう。理由はない。ただ、休みたいから、休めばいい。
廊下を抜け、隣の部屋の前に立つ。ノックをする勇気はなかった。だが、ドアはわずかに開いていた。
なんの用もないのに知らない人の部屋の前に立つ、私は完全に不審者であるけれど、それ以前に非日常を感じていた。
もし、部屋からあの人が出てきて、愛想良く私を手招いて来てくれたら。私はなにも疑わず、部屋に入ってゆくだろう。
そして、意気投合して、親友となって…。つまらない生活に他人と言う花が咲く。
過程などどうでも、今が良ければいいと言うのは本当かもしれない。
だか同時に、『誰でもいい』と思っていることに、今更だが残念に思う。
ふと我に返りる、話したこともない人との過ごす妄想などバカみたいだ。今日は家でダラダラしていよう。そう思って、扉から去ろうと思った時だった。
「…あの。」
対面して聞く声は、少しか細い声だなと思った。気のせいかもしれないが、笑顔は少し歪んでいるように見えた。
いや、なにを分析しているんだ。とはたまた我に返る。
「すっすみません。失礼しました。」
目も合わせず、扉の前から立ち去ろうとする。
すると、思いかげない言葉を私は聞いた。
「いや、ええと。お茶でも飲みますか?」
私は答えに詰まった。普通の挨拶が、こんなにも重い意味を持つとは思わなかった。
これを望んでいたくせにいざ言われるとなると、『急に見知らぬ人を上げるこの人はどうかしてる』と俯瞰してしまっていた。
だが断るのも、私の選択はなかったので部屋に上がってしまった。
少しして、テーブルに向かい合って座る。お互い、言葉を探す。静かな時間が流れる。
気まずいなと思った。想像と現実はやはり違うものだ。シュミレーションどうりには絶対にいかないと再度思い知らされる。
やがて、女性が口を開く。
「変なことを言っているのは十の承知で、話を聞いてくれませんか?」
その言葉に、無意識に頷く。
「隣に住んでいても、あなたのことはほとんど知らない。でも、知ろうと思えば、押しかけるなんなり行動すれば知れる。それが出来るのに私は貴方を『知れない』とさっきまで決めつけていました。
それに、声だけで、あなたがどんな人か少しだけわかるだけでも凄いことだと…。」
私はお茶の湯気を見つめながら、考え、黙る。
僕の生活も、誰かにとっては、わずかに見えるだけで何か意味を持つのかもしれない。たった一声でも、誰かの一日を彩ることがあるのかもしれない。
「でも、想像と現実は違いました。声で聞く貴方と、今あった貴方は別物でした。」
その言葉に、賛同する私がいる。
「…やっぱり、なんでもないです、変な事を言ってしまってすみません。」
「いいえ。同じことを考えてました。」
「そうなんですか。………あの、今の貴方の言葉を聞いて、嬉しいと思いました。同じ感覚を共有しているような__。…気持ち悪いですかね。」
「いいや。私も、貴方と同じです。」
私はただ、この人が考えていることを無くしたりしては行けないと、それだけを考えていた。
それから沈黙が流れ、あまり覚えてないがすぐ帰ったと思う。
廊下で私は初めて自分の足取りを意識した。いつも通りの道。いつも通りの空気。でも、これを誰かが共有しているだけでうれしくなっている自分がいた。
平凡な日常も、誰かと少しだけ重なれば、特別になる。私は、そう思った。