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【一】ナオが死んだ。
昨年の秋のことだ。
十年連れ添ったナオが死んだ。
今でも僕は、彼女の姿をはっきりと覚えている。しなやかな黒い毛先、白い頬と顎、彼女の頬に触れる時、僕は幸せを感じていた。僕が愛する唯一。それがナオだった。
ナオと僕は、僕が中学生の頃、十三歳の頃に出会った。
彼女は日本語が話せなかったが、その顔は紛れもなく日本のものだった。
僕は何度もナオを抱きしめて、その頬に己の頬を当てた。温かく柔らかかった。
そんなナオの死は、実に唐突だった。
最初は咳をするようになり、その咳は次第に重く湿ったように変わり、異変を感じて診察を受けさせたら、入院が必要だと言われ、僕は呆然としながら立ち尽くした。入院したナオは、三日後、帰らぬものとなった。
喪失感。
そのような言葉では、片付けることが出来ない。僕はまだ、彼女の死と向き合えないでいる。今も自室のソファに座り、僕は膝の間に両手を組んでおき、ナオのことを思い出している。いつもナオは、僕に明るい心地を味あわせてくれた。どんなに落ち込んだ日でも、ナオが僕に寄り添ってくれるだけで、心が軽くなったものだ。ナオは、僕に幸せをくれた。いいや、幸せがなんなのか、教えてくれたのだと思う。
その時、ノックの音がしたから、僕は緩慢に瞳を動かし、そちらを見た。
「入れ」
声をかける。すると、軋んだ音を立てて、飴色の扉が開いた。
入ってきたのは、僕の秘書――という名の、執事だった。代々僕の|東條《とうじょう》家に仕える家系の彼は、現在僕に仕えている。父には、家令である彼の父が付き人としてそばにいる。
「なに?」
「|日向《ひなた》様、そろそろお時間です」
僕は陰鬱な気分で頷いた。本日、僕はお見合いをする事になっている。大学を卒業して一年、僕は現在二十三歳だ。東條家の跡取りとして、身分が確かな、家格が釣り合う相手と、結婚するようにと周囲に促されている。
――僕の心は、ナオだけのものなのに。
僕が求めるのは、ナオだけだ。こころから愛する事が出来たのは、ナオだけだ。
彼女以上に好意を抱ける女性など、思い描けない。
尤もどうせ、愛のないお見合いをして、僕は心が平坦で冷たいまま、婚姻するのだとは思う。それは周囲の圧力に屈したためではなく、どちらかといえば諦観だった。ナオが生きていたならば、僕は違う結論を導出したかもしれない。きちんと恋情を伴う結婚を選択できたのかもしれない。
「参りましょう」
執事の柊に声をかけられ、僕はぼんやりとしたままで立ち上がる。曖昧模糊としている思考は、僕の体に鉛をつけたようだ。重い体を、それでも必死に動かして、僕は立ち上がり、扉へと向かう。そして先導するように歩きはじめた柊の後を、ゆっくりと僕は進んだ。
お見合い相手は、父が選んだ、旧華族のご令嬢だ。由緒正しい公家華族の血筋であり、その昔は|帝《みかど》のそばに仕えていたこともあるという家柄だ。現在は、地方銀行を経営しているのだとか。
僕の東條家は、旧財閥の流れを汲む家柄であり、大規模な会社の株主だ。僕の一族は、経営を配下の者に任せ、働きすらしない。武家華族の出時である我が家は、明治維新の時に鉱山を掘り当て、多額の資金を得て、それを投資し、財を成した家柄だ。元々は、ある藩に仕える武家だったそうだ。今も、僕の家には、江戸時代より伝わる掛け軸と、刀が飾られている。
階段を降りていき、僕はエントランスホールで、シャンデリアの下、溜息を押し殺した。
そんな僕に、首だけで柊が振り返る。
眼鏡の奥の瞳が、僅かに鋭くなった気がした。
「また、ナオ様の事を考えておられるのですか?」
「……そうだよ」
「無理に忘れろとはもうしませんが、心がここに無い状態では、|御笠《みかさ》様にも失礼だと存じます」
御笠|礼子《れいこ》が、僕のお見合いの相手だ。何度か写真を見せられた。
だが、僕の脳裏にあるのは、いつもナオの元気だった頃の姿だ。
僕が何も答えないでいると、再び柊が歩きはじめた。僕も歩みを再開する。
こうして玄関を出て、僕は車に乗った。柊は助手席で、運転手は東條家に仕える者だ。昔で言う馬車の御者のような存在だ。
――車で揺られる事、三十分。
僕は、明治時代に北欧から移築され、現在は内部を少し改装し、レストランとしている歴史ある洋館に入った。僕の付添人である叔父の|克良《かつら》の姿はまだない。昨夜、遅れると話していた。叔父も僕の家に同居している。
正面に座る礼子嬢の隣には、彼女の母親がいた。
僕はぼんやりとしたままで、礼子嬢を視界に捉える。細身の体躯をしており、色白で背が高い。長い黒髪を垂らしている。僕はその髪の色を見て、胸中でナオの方が優しい色をしていたと考える。ナオの顔は、礼子嬢よりもさらに白かったことも思い出した。
比較すべきでないと分かってはいる。
だが僕は、他者と会う時、常にナオの事を思い出しては、僕の前にいるのはナオではないと比較してしまう。人に限らず、それは散歩中の犬であったり、庭の木に停まる小鳥であったり、路地を歩く街猫であったり、様々な相手が比較対象だ。理由は簡単だ。僕の世界はナオ一色だったから、この世界に在るもの全ては、ナオがいなくなった結果色褪せているし、どこかにナオがいないかと僕は今もナオ探していて、だから比較し違うと確認し、その都度絶望している。もうこの世界には、僕を幸せにしてくれる彼女はいないのだ。
その時叔父が到着し、僕の隣に座った。柊は、僕の後ろの壁際に立っている。
「それでは始めましょうか」
礼子嬢とは異なり、恰幅がいい彼女の母親が、仕切るように声を出した。
僕は俯き、瞬きにしては長い時間目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げ――唇の両端を持ち上げる。表情筋を酷使し、柔らかな笑みを形作った。僕は、作り笑いになれている。それは出時の関係で、義務的に笑わなければならない場面が多かったからだ。
「お初にお目にかかります、礼子嬢。僕は、東條家の長子で、日向と申します」
微笑したままで、僕は名乗った。礼子嬢は笑うでもなく、無機質な表情で、ボクをまじまじと見ている。それから薄い唇を、静かに開いた。
「御笠家の三女の、御笠礼子と申します。今日は、宜しくお願い致します」
淡々とした声音だった。感情の窺えない声を耳にした僕は、礼子嬢がこのお見合いに乗り気ではないのかもしれないと考える。
――僕は、別に誰と結婚しても構わない。
ナオしか愛せない以上、結婚相手に心を開くことは、僕にとってあり得ないからだ。上辺だけ、僕は愛しているフリをし、生涯を終えるのだろうと考えている。ナオの代わりは、どこにもいない。
「日向さんは、ピアノを嗜まれているのだとか」
彼女の母親の声に、僕は頷く。そしてチラリと、あつらえられたように存在する、レストランのピアノを一瞥した。
「宜しければ、礼子嬢にピアノを奏でて、音楽を贈る機会を頂戴できませんか?」
本当は、ピアノを弾くのは面倒だと思ったが、お見合いの時間を少しでも潰せるのなら、構わないと思った。僕は、ナオと暮らしていた時の事を思い出す。親が誰なのか分からないナオは、独りだった。そして僕の家で暮らし始めると、僕に常に寄り添うようになり、僕がピアノを弾く日は、その部屋の片隅に立って、いつも僕の演奏を眺めていた。ナオもまた、僕を愛してくれていたのだと、僕は思う。なにせナオと僕は、いつも一緒にいて、ナオは僕のいる場所に率先してついてきたのだから。
そんな事をつらつらと考えながら、僕はピアノの前の椅子に座った。
そして何を弾こうかと考える。
僕の脳裏には、すぐにモーツァルトのレクイエムが浮かんだ。ナオのことを想う。鎮魂歌を奏でて、少しでもナオが安らかに眠るようにと考える。
お見合いの場には相応しくないだろう。だが、この曲がナオのために選曲したものだとは、誰も気づかないだろうと考える。僕は鍵盤に指をのせた。
――ナオの事を考えながら、僕は曲を奏でた。
辛さ、悲しさ、それらが胸に溢れてくる。僕は泣きそうになりながら、悲しい旋律を弾ききった。そしてギュッと目を閉じ涙を隠してから瞼を開けて立ち上がり、自分の席へと戻った。
「最高の演奏でしたわ!」
礼子嬢の母が満面の笑みになり、両頬を持ち上げて小さく拍手をした。
僕が礼子嬢を一瞥すると、彼女は小首を傾げ、何度か瞬きをし、不思議そうに僕を見ていた。初めて感情が見て取れた気がした。
そこへフレンチのフルコースが運ばれてきた。ブッシュと前菜を、僕は口へと運ぶ。
それから少しして、僕は運ばれてきたスープに視線を落としてから、静かに銀器に手を伸ばした。食事をしても、乾涸らびてしまった僕の心は、味を感じさせない。理性では美味だと分かるのに、感情がそれを認めない。スープの次は、魚料理が運ばれてくる。僕は適度に会話を交えつつ、それを食した。そしてデザートが出てきた頃、礼子嬢に尋ねた。
「礼子嬢は、絵画に興味がおありだとか」
「ええ」
無表情で彼女が頷く。僕は、自分が成すべき事を、よく理解している。
「それでは今度、美術館に行きませんか?」
次の約束を取り付けなければならないと考えながら、僕は続いて運ばれてきた
「……そうですね」
彼女もまた、彼女がしなければならないことを理解しているのだろう。僅かな沈黙を挟み、彼女は淡々と答えた。そんな僕達を見ていた叔父が言う。
「そろそろ食事も終わりだな。このレストランの庭は、ちょっと目を惹くんだぞ。英国式庭園があるんだ。俺はそれを見せたくて、このレストランを選んだ。そうだ、日向。お前には一度見せたことがあるだろう? 礼子嬢を案内してやれよ」
快活な叔父の声に、僕は頷いてから礼子嬢を見る。すると窓の方に顔を向けていた礼子嬢が、僕に視線を向けた。
「参りましょう」
僕が述べると、彼女がゆっくりと立ち上がる。僕もまた椅子から立ち、先導するように貸し切りのレストランの玄関へと向かう。扉を開けると、上部についている鐘の音がした。
こうして僕達は外へと出て、庭にある四阿まで歩いた。
そこのベンチに座って、僕は興味なんて微塵も無い花を話の種にする。僕には、美しい自然の風景も、色褪せて見える。そう考えていた時だった。
「聞いても良いでしょうか」
「なんですか?」
「――先程の演奏は、誰のためのレクイエムだったのですか?」
その言葉に、僕はドキリとした。思わず息を呑む。
「少なくとも、私のために弾いたのでは無いでしょう? とても悲愴が宿る演奏でしたもの。誰かを想って弾いておられたように感じました」
僕は動機がし始めた胸を、静める努力をした。
それから大きく吐息して、苦笑した。今日初めての、自然に浮かんできた表情だ。
「本日は、なんの日ですか?」
「私達のお見合いの日ですが」
「ならば――分かっても言わない方が良いことがあるのでは?」
僕がきっぱりと述べると、焦ったように今度は礼子嬢が息を呑んだ。
僅かな間、僕達の間には沈黙が横たわる。
それを先に破ったのは、礼子嬢だった。
「美術館、楽しみにしております」
「僕も。貴女と、これからも色々なところに行ってみたい」
自然と僕は、敬語から日常的な言葉遣いに切り替えた。礼子嬢は何も言わない。
「あの薔薇は、特に美しいですね」
先に沈黙を破ったのは、僕だ。彼女に一応気をつかった結果だ。
「え、ええ。そうですね」
「――結婚したら、僕の家の庭にも、このように美しい薔薇を、礼子嬢のためだけに咲かせたいものです」
「……結婚……」
「僕のこと、気に入りませんか? それは辛いな」
「そ、そんなことはありません。た、ただ……その……」
礼子嬢が言い淀んだ。それから困ったように瞳をやらしてから、華奢な手を白い頬に当てた。
「私は、恋をしてみたいのです」
「恋?」
恋など、お見合いでの政略的な結婚には存在しない。馬鹿げていると、僕は冷めた内心で考える。すると礼子嬢が続けた。
「愛を知りたいのです」
――だが、それまでと異なり、この言葉は、僕に突き刺さった。
僕は、愛を知っている。ナオが教えてくれたのは、紛れもなく愛だ。
礼子嬢を、僕はまじまじと見た。
彼女は、僕とは異なり、まだ愛を、毎日を薔薇色に染めてくれる、幸せな愛を、知らないというのか。それが哀れに思えた。僕はこの時、礼子嬢に同情した。
「いつか……きっと見つかるよ」
「……そうですね」
か細い声で、彼女は答えた。しかし愛を知ってはいても、愛を喪失して一年になる僕には、彼女に愛を教える力は無いと、強く感じた。
このようにして、その後は店に戻り、すぐに解散した。
つつがなくお見合いは終了し、次の約束もしたわけだ。
帰り際、僕と礼子嬢は、携帯端末の連絡先を交換した。
帰りの車内で、叔父が僕を見た。
「吸ってもいいか?」
叔父の手には、葉巻の箱がある。僕が頷くと、店での快活な様子とは一変し、気怠げな表情で、車の窓を少し開けてから、克良叔父さんは長い紙巻きの葉巻を加えた。手には携帯灰皿を持っている。車内にバニラの香りが漂い始め、紫煙が窓の方へと向かって、外に溶けていく。
「美人だったな」
その言葉に、僕は俯いた。僕の中では、ナオの方が美人だ。記憶の中のナオは、誰よりも美しく、気品に溢れていた。
「家柄も申し分ない」
それだけは、ナオに無かった。
――僕とナオが結婚するような未来は、当然ながら、そもそも無かったと言える。
「前向きに検討する――いいや、あちらがよければ、東條家としては礼子嬢との婚姻を望んでいる、と、そう返答してもいいよな?」
多忙な父に代わり、少しは時間的余裕がある克良叔父さんが、僕の結婚をまとめると決まっている。二十七歳で、僕と歳が近く、まだ克良叔父さんは独身だ。父とは歳が離れている。克良叔父さんは、独身貴族を楽しむと豪語してやまない。
退屈そうに僕へと視線を流している叔父に、僕は頷いた。
「うん、それでいいよ」
どうせ、愛のない結婚だ。相手は誰でも構わない。