大好きなナオが死んでしまった僕とお見合い相手。
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目次
【一】ナオが死んだ。
昨年の秋のことだ。
十年連れ添ったナオが死んだ。
今でも僕は、彼女の姿をはっきりと覚えている。しなやかな黒い毛先、白い頬と顎、彼女の頬に触れる時、僕は幸せを感じていた。僕が愛する唯一。それがナオだった。
ナオと僕は、僕が中学生の頃、十三歳の頃に出会った。
彼女は日本語が話せなかったが、その顔は紛れもなく日本のものだった。
僕は何度もナオを抱きしめて、その頬に己の頬を当てた。温かく柔らかかった。
そんなナオの死は、実に唐突だった。
最初は咳をするようになり、その咳は次第に重く湿ったように変わり、異変を感じて診察を受けさせたら、入院が必要だと言われ、僕は呆然としながら立ち尽くした。入院したナオは、三日後、帰らぬものとなった。
喪失感。
そのような言葉では、片付けることが出来ない。僕はまだ、彼女の死と向き合えないでいる。今も自室のソファに座り、僕は膝の間に両手を組んでおき、ナオのことを思い出している。いつもナオは、僕に明るい心地を味あわせてくれた。どんなに落ち込んだ日でも、ナオが僕に寄り添ってくれるだけで、心が軽くなったものだ。ナオは、僕に幸せをくれた。いいや、幸せがなんなのか、教えてくれたのだと思う。
その時、ノックの音がしたから、僕は緩慢に瞳を動かし、そちらを見た。
「入れ」
声をかける。すると、軋んだ音を立てて、飴色の扉が開いた。
入ってきたのは、僕の秘書――という名の、執事だった。代々僕の|東條《とうじょう》家に仕える家系の彼は、現在僕に仕えている。父には、家令である彼の父が付き人としてそばにいる。
「なに?」
「|日向《ひなた》様、そろそろお時間です」
僕は陰鬱な気分で頷いた。本日、僕はお見合いをする事になっている。大学を卒業して一年、僕は現在二十三歳だ。東條家の跡取りとして、身分が確かな、家格が釣り合う相手と、結婚するようにと周囲に促されている。
――僕の心は、ナオだけのものなのに。
僕が求めるのは、ナオだけだ。こころから愛する事が出来たのは、ナオだけだ。
彼女以上に好意を抱ける女性など、思い描けない。
尤もどうせ、愛のないお見合いをして、僕は心が平坦で冷たいまま、婚姻するのだとは思う。それは周囲の圧力に屈したためではなく、どちらかといえば諦観だった。ナオが生きていたならば、僕は違う結論を導出したかもしれない。きちんと恋情を伴う結婚を選択できたのかもしれない。
「参りましょう」
執事の柊に声をかけられ、僕はぼんやりとしたままで立ち上がる。曖昧模糊としている思考は、僕の体に鉛をつけたようだ。重い体を、それでも必死に動かして、僕は立ち上がり、扉へと向かう。そして先導するように歩きはじめた柊の後を、ゆっくりと僕は進んだ。
お見合い相手は、父が選んだ、旧華族のご令嬢だ。由緒正しい公家華族の血筋であり、その昔は|帝《みかど》のそばに仕えていたこともあるという家柄だ。現在は、地方銀行を経営しているのだとか。
僕の東條家は、旧財閥の流れを汲む家柄であり、大規模な会社の株主だ。僕の一族は、経営を配下の者に任せ、働きすらしない。武家華族の出時である我が家は、明治維新の時に鉱山を掘り当て、多額の資金を得て、それを投資し、財を成した家柄だ。元々は、ある藩に仕える武家だったそうだ。今も、僕の家には、江戸時代より伝わる掛け軸と、刀が飾られている。
階段を降りていき、僕はエントランスホールで、シャンデリアの下、溜息を押し殺した。
そんな僕に、首だけで柊が振り返る。
眼鏡の奥の瞳が、僅かに鋭くなった気がした。
「また、ナオ様の事を考えておられるのですか?」
「……そうだよ」
「無理に忘れろとはもうしませんが、心がここに無い状態では、|御笠《みかさ》様にも失礼だと存じます」
御笠|礼子《れいこ》が、僕のお見合いの相手だ。何度か写真を見せられた。
だが、僕の脳裏にあるのは、いつもナオの元気だった頃の姿だ。
僕が何も答えないでいると、再び柊が歩きはじめた。僕も歩みを再開する。
こうして玄関を出て、僕は車に乗った。柊は助手席で、運転手は東條家に仕える者だ。昔で言う馬車の御者のような存在だ。
――車で揺られる事、三十分。
僕は、明治時代に北欧から移築され、現在は内部を少し改装し、レストランとしている歴史ある洋館に入った。僕の付添人である叔父の|克良《かつら》の姿はまだない。昨夜、遅れると話していた。叔父も僕の家に同居している。
正面に座る礼子嬢の隣には、彼女の母親がいた。
僕はぼんやりとしたままで、礼子嬢を視界に捉える。細身の体躯をしており、色白で背が高い。長い黒髪を垂らしている。僕はその髪の色を見て、胸中でナオの方が優しい色をしていたと考える。ナオの顔は、礼子嬢よりもさらに白かったことも思い出した。
比較すべきでないと分かってはいる。
だが僕は、他者と会う時、常にナオの事を思い出しては、僕の前にいるのはナオではないと比較してしまう。人に限らず、それは散歩中の犬であったり、庭の木に停まる小鳥であったり、路地を歩く街猫であったり、様々な相手が比較対象だ。理由は簡単だ。僕の世界はナオ一色だったから、この世界に在るもの全ては、ナオがいなくなった結果色褪せているし、どこかにナオがいないかと僕は今もナオ探していて、だから比較し違うと確認し、その都度絶望している。もうこの世界には、僕を幸せにしてくれる彼女はいないのだ。
その時叔父が到着し、僕の隣に座った。柊は、僕の後ろの壁際に立っている。
「それでは始めましょうか」
礼子嬢とは異なり、恰幅がいい彼女の母親が、仕切るように声を出した。
僕は俯き、瞬きにしては長い時間目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げ――唇の両端を持ち上げる。表情筋を酷使し、柔らかな笑みを形作った。僕は、作り笑いになれている。それは出時の関係で、義務的に笑わなければならない場面が多かったからだ。
「お初にお目にかかります、礼子嬢。僕は、東條家の長子で、日向と申します」
微笑したままで、僕は名乗った。礼子嬢は笑うでもなく、無機質な表情で、ボクをまじまじと見ている。それから薄い唇を、静かに開いた。
「御笠家の三女の、御笠礼子と申します。今日は、宜しくお願い致します」
淡々とした声音だった。感情の窺えない声を耳にした僕は、礼子嬢がこのお見合いに乗り気ではないのかもしれないと考える。
――僕は、別に誰と結婚しても構わない。
ナオしか愛せない以上、結婚相手に心を開くことは、僕にとってあり得ないからだ。上辺だけ、僕は愛しているフリをし、生涯を終えるのだろうと考えている。ナオの代わりは、どこにもいない。
「日向さんは、ピアノを嗜まれているのだとか」
彼女の母親の声に、僕は頷く。そしてチラリと、あつらえられたように存在する、レストランのピアノを一瞥した。
「宜しければ、礼子嬢にピアノを奏でて、音楽を贈る機会を頂戴できませんか?」
本当は、ピアノを弾くのは面倒だと思ったが、お見合いの時間を少しでも潰せるのなら、構わないと思った。僕は、ナオと暮らしていた時の事を思い出す。親が誰なのか分からないナオは、独りだった。そして僕の家で暮らし始めると、僕に常に寄り添うようになり、僕がピアノを弾く日は、その部屋の片隅に立って、いつも僕の演奏を眺めていた。ナオもまた、僕を愛してくれていたのだと、僕は思う。なにせナオと僕は、いつも一緒にいて、ナオは僕のいる場所に率先してついてきたのだから。
そんな事をつらつらと考えながら、僕はピアノの前の椅子に座った。
そして何を弾こうかと考える。
僕の脳裏には、すぐにモーツァルトのレクイエムが浮かんだ。ナオのことを想う。鎮魂歌を奏でて、少しでもナオが安らかに眠るようにと考える。
お見合いの場には相応しくないだろう。だが、この曲がナオのために選曲したものだとは、誰も気づかないだろうと考える。僕は鍵盤に指をのせた。
――ナオの事を考えながら、僕は曲を奏でた。
辛さ、悲しさ、それらが胸に溢れてくる。僕は泣きそうになりながら、悲しい旋律を弾ききった。そしてギュッと目を閉じ涙を隠してから瞼を開けて立ち上がり、自分の席へと戻った。
「最高の演奏でしたわ!」
礼子嬢の母が満面の笑みになり、両頬を持ち上げて小さく拍手をした。
僕が礼子嬢を一瞥すると、彼女は小首を傾げ、何度か瞬きをし、不思議そうに僕を見ていた。初めて感情が見て取れた気がした。
そこへフレンチのフルコースが運ばれてきた。ブッシュと前菜を、僕は口へと運ぶ。
それから少しして、僕は運ばれてきたスープに視線を落としてから、静かに銀器に手を伸ばした。食事をしても、乾涸らびてしまった僕の心は、味を感じさせない。理性では美味だと分かるのに、感情がそれを認めない。スープの次は、魚料理が運ばれてくる。僕は適度に会話を交えつつ、それを食した。そしてデザートが出てきた頃、礼子嬢に尋ねた。
「礼子嬢は、絵画に興味がおありだとか」
「ええ」
無表情で彼女が頷く。僕は、自分が成すべき事を、よく理解している。
「それでは今度、美術館に行きませんか?」
次の約束を取り付けなければならないと考えながら、僕は続いて運ばれてきた
「……そうですね」
彼女もまた、彼女がしなければならないことを理解しているのだろう。僅かな沈黙を挟み、彼女は淡々と答えた。そんな僕達を見ていた叔父が言う。
「そろそろ食事も終わりだな。このレストランの庭は、ちょっと目を惹くんだぞ。英国式庭園があるんだ。俺はそれを見せたくて、このレストランを選んだ。そうだ、日向。お前には一度見せたことがあるだろう? 礼子嬢を案内してやれよ」
快活な叔父の声に、僕は頷いてから礼子嬢を見る。すると窓の方に顔を向けていた礼子嬢が、僕に視線を向けた。
「参りましょう」
僕が述べると、彼女がゆっくりと立ち上がる。僕もまた椅子から立ち、先導するように貸し切りのレストランの玄関へと向かう。扉を開けると、上部についている鐘の音がした。
こうして僕達は外へと出て、庭にある四阿まで歩いた。
そこのベンチに座って、僕は興味なんて微塵も無い花を話の種にする。僕には、美しい自然の風景も、色褪せて見える。そう考えていた時だった。
「聞いても良いでしょうか」
「なんですか?」
「――先程の演奏は、誰のためのレクイエムだったのですか?」
その言葉に、僕はドキリとした。思わず息を呑む。
「少なくとも、私のために弾いたのでは無いでしょう? とても悲愴が宿る演奏でしたもの。誰かを想って弾いておられたように感じました」
僕は動機がし始めた胸を、静める努力をした。
それから大きく吐息して、苦笑した。今日初めての、自然に浮かんできた表情だ。
「本日は、なんの日ですか?」
「私達のお見合いの日ですが」
「ならば――分かっても言わない方が良いことがあるのでは?」
僕がきっぱりと述べると、焦ったように今度は礼子嬢が息を呑んだ。
僅かな間、僕達の間には沈黙が横たわる。
それを先に破ったのは、礼子嬢だった。
「美術館、楽しみにしております」
「僕も。貴女と、これからも色々なところに行ってみたい」
自然と僕は、敬語から日常的な言葉遣いに切り替えた。礼子嬢は何も言わない。
「あの薔薇は、特に美しいですね」
先に沈黙を破ったのは、僕だ。彼女に一応気をつかった結果だ。
「え、ええ。そうですね」
「――結婚したら、僕の家の庭にも、このように美しい薔薇を、礼子嬢のためだけに咲かせたいものです」
「……結婚……」
「僕のこと、気に入りませんか? それは辛いな」
「そ、そんなことはありません。た、ただ……その……」
礼子嬢が言い淀んだ。それから困ったように瞳をやらしてから、華奢な手を白い頬に当てた。
「私は、恋をしてみたいのです」
「恋?」
恋など、お見合いでの政略的な結婚には存在しない。馬鹿げていると、僕は冷めた内心で考える。すると礼子嬢が続けた。
「愛を知りたいのです」
――だが、それまでと異なり、この言葉は、僕に突き刺さった。
僕は、愛を知っている。ナオが教えてくれたのは、紛れもなく愛だ。
礼子嬢を、僕はまじまじと見た。
彼女は、僕とは異なり、まだ愛を、毎日を薔薇色に染めてくれる、幸せな愛を、知らないというのか。それが哀れに思えた。僕はこの時、礼子嬢に同情した。
「いつか……きっと見つかるよ」
「……そうですね」
か細い声で、彼女は答えた。しかし愛を知ってはいても、愛を喪失して一年になる僕には、彼女に愛を教える力は無いと、強く感じた。
このようにして、その後は店に戻り、すぐに解散した。
つつがなくお見合いは終了し、次の約束もしたわけだ。
帰り際、僕と礼子嬢は、携帯端末の連絡先を交換した。
帰りの車内で、叔父が僕を見た。
「吸ってもいいか?」
叔父の手には、葉巻の箱がある。僕が頷くと、店での快活な様子とは一変し、気怠げな表情で、車の窓を少し開けてから、克良叔父さんは長い紙巻きの葉巻を加えた。手には携帯灰皿を持っている。車内にバニラの香りが漂い始め、紫煙が窓の方へと向かって、外に溶けていく。
「美人だったな」
その言葉に、僕は俯いた。僕の中では、ナオの方が美人だ。記憶の中のナオは、誰よりも美しく、気品に溢れていた。
「家柄も申し分ない」
それだけは、ナオに無かった。
――僕とナオが結婚するような未来は、当然ながら、そもそも無かったと言える。
「前向きに検討する――いいや、あちらがよければ、東條家としては礼子嬢との婚姻を望んでいる、と、そう返答してもいいよな?」
多忙な父に代わり、少しは時間的余裕がある克良叔父さんが、僕の結婚をまとめると決まっている。二十七歳で、僕と歳が近く、まだ克良叔父さんは独身だ。父とは歳が離れている。克良叔父さんは、独身貴族を楽しむと豪語してやまない。
退屈そうに僕へと視線を流している叔父に、僕は頷いた。
「うん、それでいいよ」
どうせ、愛のない結婚だ。相手は誰でも構わない。
【二】ナオの夢。
帰宅した僕は、ソファに座って、背中を深々と預けた。とても疲れていた。
ナオがいないと全てが億劫だ。何故ナオがそばにいないのかと疑問に思っては、ナオの最期を思い出す。僕は胸が苦しくなって、窓を見た。僕はナオを窓の前で、幾度も抱きしめた。そばにある寝台で、僕はナオを抱いた。優しく撫でれば、ナオはくすぐったそうに顔を動かし、僅かに顎を持ち上げて僕を見ていた。僕は頻繁に、彼女の顎の下を擽り、耳の後ろを指で撫でた。そうすると、ナオは甘い声で啼いた。僕は、寝台で何度も何度も、ナオを抱いた。それを思い出し、彼女の体温を想起し、僕はさらに苦しくなって、ギュッと目を閉じた。
僕は両腕で体を抱く。何故腕の間に、ナオはいないのだろう。再び疑問に思っては、彼女の最期の姿に直面する。目を伏せれば、瞼の裏に焼き付いて離れない、入院中の苦しそうな姿がよぎった。不安そうな瞳が僕の脳裏を埋め尽くす。
気づくと僕の体は震えていて、頬に涙の筋が出来ていた。
僕は声を出さずに、静かに泣く。いくら泣いてもナオが帰ってこないことは、勿論理解している。この涙は、自然に出てくるから、僕にはどうしようもない。僕はそのままひとしきり、目を伏せナオを思い出しながら涙を零した。
――涙を拭ったのは、柊が夕食の知らせを運んできた時だった。腕で目を擦ってから、僕は立ち上がり、自室から出た。本当は、食欲なんてない。もうずっと、僕は味のしない食事を義務的に食べている。
ダイニングへ着くと、本日はボロネーゼらしく、皿が僕の席の前にあった。
フォークで僕は、パスタを巻き取る。
ミートソースの赤い色が、最期が近づいた頃、血を吐いたナオを彷彿とさせた。気分が悪くなる。白いテーブルクロスの上にあるワイングラスに浸る葡萄酒の赤もまた、僕を苦しくさせる。吐き気がした。僕は一口だけ食べて、席を立つ。
「日向様?」
柊の声を無視して、僕は足早に階段を上り、自室へと戻った。
そしてチェストの上に置いてあるナオの写真を手に取った。僕と二人で撮った写真だ。
それを見たら、僕の涙腺が決壊し、今度は僕は声を上げて号泣した。
そこへノックの音がし、僕は何も答えなかったのに、柊が入ってきた。
僕の様子を見た柊は、ハッとした顔をした。
「日向様……」
僕を哀れむような声が、静かな室内に響く。
「ナオ様の事は、本当に残念です。不治の病を急に発症するなんて……」
「……」
ナオは、急性の病で亡くなった。誰にも、どうしようもなかった。手の施しようがなかった。その事実を思い出し、脳裏に様々な、末期の苦しげなナオの姿が浮かび、僕はさらに号泣した。声を上げて、泣き叫ぶ。
「どうして、どうして……! どうしてなんだ。どうして……ナオ、ナオ……僕はナオがいないとダメなのに……僕をおいていった、酷い、酷いよナオ……なんで、なんで!!」
首を振りながら、僕は声を上げる。すると柊が、困ったような顔をして、歩みよってきた。そして泣きすぎて呼吸が苦しくなっていた僕の背中を、柊はゆっくりと撫でた。
「日向様。ナオ様はもういない――それは、お分かりですね?」
「誰よりも分かってる!! ナオがいなくて、こんなにも苦しいんだから、僕ほどナオが世界から消えてしまった事を分かっている人間なんていない!」
「ナオ様は、そのように悲しむ日向様を見たら、どのように思うのでしょう? きっとナオ様は、日向様の幸福を願っているはずです」
「ナオがいなきゃ、幸福になんてなれない!」
「日向様、現実を直視して下さい。死は等しく、なにものにも訪れるのです。厳しいことを申し上げますが、自己憐憫に浸るのも、いいかげんになさいませ」
強い口調でそう言ってから、呆れたように吐息し、柊は目を眇めた。
柊の言葉はきっと正しい。
僕の理性はそう述べたけれど、感情が理解を拒否した結果、僕は泣き叫んで、ナオをひたすら求めた。号泣している僕のそばに、ずっと柊が立っていた。次第に無表情になった彼だが、僕が泣き止むまで、見守ってくれた。僕が泣き止んだのは、深夜のことだった。
「安心するように、紅茶をお持ち致します。カフェインが入っていない品を」
そう言うと柊は一度出て行き、それからすぐに茶器の載る盆を持って戻ってきた。
「セントジョーンズワートに類似の効果があります。きっと、ぐっすりと眠れますよ」
柊は微苦笑しながら、テーブルにティーセットを置いた。そして紅茶をカップに注ぐ。泣き疲れた僕は、ぼんやりとそれを見ていた。そうしてお茶が注がれた後、カップを持ち上げて、ゆっくりと傾ける。カップに浸るお茶の味は、僅かに甘かった。飲むと、体が温まっていき、確かに安心する気がした。
ゆっくりと飲む内に、三十分ほど経過した頃、僕を睡魔が襲った。
「ありがとう、柊。眠れそうだよ」
「そうですか。それでは私は失礼致します」
柊は茶器を片付けてから、盆を持って、部屋から出て行った。僕は寝台へと向かい、寝転がって、布団を掛けた。ナオも同じ毛布の中にくるまっていたのが懐かしい。僕が腕枕をするようにして、そこに頭を預けて、僕の体の方を向いて、ナオはよく眠っていた。そんな事を考える内に、ぼくはすぐに眠りについた。
――そして、夢を見た。
ナオが元気だった頃の夢だ。
僕の膝の上にのり、安心した様子で、僕の体に密着していたナオ。
なにものよりも愛らしく、可愛く、綺麗で、美しかった。性格は温厚だったが、時に子供のように玩具に興味を示す、純粋さがあった。僕はたびたび、ナオが好きそうな玩具を買って、二人で遊んだ。ナオは、僕の目には、幸せそうに映っていた。
幸せだ。夢の中で、僕の胸は、日だまりのように温かかった。ナオのそばにいられる。それがどうしようもなく嬉しくて、僕は嬉しさから、頬に涙の筋を作った。
するとジリジリジリと唐突に音がした。
ハッとして目を開けると、ナオの姿はどこにもなく、無情な目覚まし時計の音が鳴り響いていた。夢の痕跡は、僕の頬を塗らしている涙だけだった。
辛かった。幸せがあったからこそ、幸せを知ってしまったからこそ、喪失が辛い。
【四】新しい命
礼子嬢から連絡が来たのは、冬にさしかかった頃の事だった。既に結婚したい旨は、叔父が通達してあったが、連絡をしていなかった僕達。僕は前回のデートの事が気まずくて、礼子嬢の事を時々思いだしては、頭を振ってその出来事の記憶を振り払おうとしていた。
『私の家にお招きしたいのです。日時は――』
突然の誘いだったが、スッと目を眇めて、僕は同意の返事をした。
それから柊に、告げられた日のスケジュールを調整してもらった。
そして招かれた当日が訪れた。
「いってらっしゃいませ」
柊に見送られて、僕は車に乗り込む。専属の運転手が、御笠家まで僕を乗せていった。御笠家は和風建築だったが、内部は所々洋風に改装されていた。
「来てくれて有難うございます」
黒いハイネックのセーター姿の礼子嬢は、僕が初めて見る笑顔を浮かべていた。
「実は、新しい命が生まれたのです」
それを聞いて、僕は息を呑んだ。彼女は三女だったなと思い出す。ならば二人の姉のどちらかに、子供が生まれたのだろうかと考えた。家族構成は聞いていた。
「ぜひ、日向様に会わせたくて。どうぞこちらへ」
歩きはじめた彼女の後ろを、僕は追いかけた。そして応接間の前をすぎ、奥の一室の洋風の扉を礼子嬢が開けるのを見た。
「ニャァ」
その瞬間に声がした。
「ミー」
「ニャ」
「ウミャ」
「ミー」
「ニヤァ」
それは、紛れもなく猫の声だった。驚いて僕は目を見開く。
そこには、乳をあげている母猫と、それを求めている五匹の仔猫の姿があった。目は開いているが、まだ生まれたばかりだと分かる。
「愛らしいでしょう?」
「……そっ、そうだね」
驚愕したままで、僕は頷いた。確かに、新しい命には違いない。ただ、僕は動揺していた。ナオの死後、これほど間近で猫を見た事が無かったからだ。
「実は、里親を探しているのです。三匹は既に見つかっていて、一匹は私の家で、母猫と一緒に飼うと、父や母を説得したのですが……もう一匹。新しい家族を迎えてくれる里親を探しているのです。これ以上は、私の家では飼えません」
頬に手を添え、悲しそうに礼子嬢が述べた。
それから彼女は、大きく深く息を吐く。
「脱走して帰ってきたら、妊娠していたのです。避妊手術をする予定の直前に脱走してしまって……」
「……な、なるほど……」
「帰ってきたら、お腹が大きくなって、そして五匹の新しい命が生まれたのです。みんな、本当に可愛くて。本音を言えば、全員飼いたいのですが、そういうわけにもいかなくて……」
礼子嬢はそう述べると、他の猫とは異なり、一歩後ろにいて、他の猫たちが占領しているから乳にありつけないトラ猫を見た。
「このトラ猫です。キジトラで、茶色の仔。ちょっと控えめで、他の猫たちに気をつかってしまうのです。弱々しくて」
苦笑した礼子嬢は、トラ猫をゆっくりと手で抱いた。
片手にのりそうなくらい小さく、他の仔猫たちよりも痩せ細っていて、四つの足はまるで棒のように細かった。
「この仔だけが、飼い主が見つからないのです。私の両親は、別の仔を気に入ってしまっていて」
「そうなんだ……」
「日向様は、猫を飼育した経験があるのでしょう? 猫を飼うのは、慣れているのでは?」
「……」
それはそうだ。誰よりもナオを愛していた僕は、徹底的に猫の育て方を学んだ。
「里親になって頂けませんか?」
「ッ」
そう言われるのではないかと、予測していた言葉だった。僕は硬直し、瞳だけを左右に揺らした後、改めて仔猫を見る。キジトラの仔猫は、少しだけ垂れ目に見える。
「ぼ、僕は……ナオの代わりはいないから、もう猫は飼わないと決めてて……」
「それは残念です。とすると、この仔は……保健所に連れて行くしかありませんね……」
礼子嬢の声が沈んだ。僕は目を見開く。
その意味を正確に理解した。
――殺処分するという意味だ。
ナオの顔がよぎる。ナオのように、この仔は死んでしまう。それも、ナオと違って元気なのに。そんな事が許されるのか? 僕は気づくと口を開いていた。
「分かったよ。僕が引き取るよ」
こうして、僕はこの日、キジトラの仔猫を引き取った。
――仔猫の世話は、非常に大変だ。ナオ用の大きな猫用のトイレなどは家にあったが、小さすぎる仔猫は、その大きさではトイレには入れない。僕はすぐに、仔猫用のトイレを購入してくるように、柊に命じた。そもそもまだ、トイレの躾もされていない仔猫は、当初は僕の布団の上で粗相をする事もあった。
「ミーミー」
僕の姿が見えないと、仔猫は啼く。か細い声で、ずっと啼いている。その上、僕の後を必死についてきては、僕の体をよじ登って肩にのる。
「名前……どうしようかな」
引き取って一週間。僕はまだ名前を決められないでいた。いくつかの候補はあるのだが、決定打が無く、悩みあぐねいている。
「相談してみようかな」
猫を引き取って以来、毎日写真と共に躾けの状態や、離乳食についてなどを、僕は礼子嬢とやりとりしている。当然のように毎日、幾度も携帯端末で、僕は礼子嬢とやりとりをした。今では、それが自然だ。返事が無いと、気になる。
「ううん。僕の猫なんだから、僕が決めないと」
そう呟いて、僕はネットで名前の検索をした。
それから、ナオと名付けた時はどうしたのだったかと考える。
「あ、そうだ。啼き声が、『なぁお』って聞こえたからだった。とすると、こいつは、『みー』って啼くことが多いから……うん、『ミー』にしよう。お前の名前、決まったぞ。ミーちゃん」
「ミー、ミー」
愛らしく啼く仔猫の名前を、ミーに決めた僕は、ニコニコしながら、小さなその仔の頭を撫でた。思ったよりは固いが、柔らかい。毛並みはフワフワだ。
僕は、ミーと共に毎夜眠る。朝も共に起きる。
ミーの存在は、すぐに僕の生活の一部になった。
そんなある日、紅茶を持ってきた柊が、僕の膝の上にいるミーを一瞥してから、微笑した。
「最近、日向様は笑顔が増えましたね。それに、涙を零さなくなった」
それを聞いて、僕はハッとした。仔猫を育てる事は大変で、毎日必死に接していた結果、僕はナオの事を、先輩の猫、以前育てたお手本の猫として日々思いだしてはいるけれど、辛い姿や喪失感に飲み込まれる事が無くなっていた。チラリと僕は、膝の上にいるミーに視線を落とす。
「ミー、ミャァ、ニャァ」
少しずつ泣き方が変わってきたミー。必死で生きようとしていて、少しずつだが大きくなっていくのが実感できるミー。ミーは僕に、生を教えてくれた。
――ああ、そうか。
ナオは幸福と愛と喪失を僕に与えた。だから僕は、愛を持ってミーを育てられるし、ミーのことを、幸福をもらう対象としてではなく、僕が幸せを与える側として接する事が出来る。ナオが全部教えてくれた事柄だ。そして――残った喪失。これに関しては、ミーが今、僕に新しい事を教えてくれている。それは、生きると言うことだ。ミーを見ていると、僕は生を実感する。ナオの喪失がもたらした心の中の空虚な穴が、必死に生きるミーの姿で、明るさで埋められていく。そう気づいた瞬間、僕はいつの間にか、世界が灰色ではなくなっていたことに気づいた。どこも色づいていない。今、柊がテーブルに並べたティースタンドを一瞥し、マカロンを一つとって口へと放り込めば、きちんと甘い味がした。
救済された僕は、静佳に瞼を伏せる。
ナオのことは生涯忘れない。そして同じ猫であっても、ナオとミーは違う。
そして僕は、ミーの事もまた、今、とても大切だ。
「幸せだからね。笑っていられるんだ。柊、その……これまで沢山、泣いちゃって、迷惑をかけたね。ごめん。僕はもう大丈夫だよ」
苦笑しながら僕が述べると、柔らかな笑顔を浮かべた柊が、軽く首を振った。
「私では、癒やしの存在になれなかった事が少々残念ですが――このように愛らしいミー様を見ていると、この結果が、当然の帰結だったようにも感じます。日向様には、笑顔が似合います。誰よりも、幸せが似合います。そのために、ミー様は一助となるのでしょうが、私も今後も日向様をお支えしますからね?」
「ありがとう」
僕もまた笑う。自然と笑みが浮かんできた。周囲の人々にも恵まれて、僕は本当に幸せ者だと実感した。ナオが教えてくれていたから、僕は素直に幸せを享受できるし、ミーを初め、大切な人のことを、僕自身が幸せにしてあげられる気がした。
【五】懐かしい記憶、猫は拗ねない。
――これらは、本当に懐かしい記憶だ。
あの後、僕と礼子は、結納を済ませて結婚した。今では呼び捨てだ。気楽な口調で、肩から力を抜いて話が出来る。それは、愛を知っていた僕が、愛を知らないと言った彼女の事を好きになり、彼女に恋をしたから、愛情を注いで、愛の芽を育て、彼女に恋を愛を教えた結果だ。今では礼子も、僕を好きになってくれた。
政略結婚じみたお見合いから始まった僕達だが、今では礼子はいつも微笑するようになった。元々が優しく穏やかな性格らしい。その割に殺処分などと言ったことを僕が追及すると、なんでも僕をその着させるための嘘だったと言って笑ったから、僕は目を据わらせて、本当に心配したし、不謹慎だと述べておいた。
「この仔も本当に大きくなりましたね」
今、僕と礼子は同じ寝台で、二人で横になっている。結婚してからは、いつも同じベッドだ。そして――僕達の間で、必ずミーが一緒に眠る。二人の間で丸くなる。それがどうしようもなく愛らしい。
「そうだね」
仔猫だった頃の痩せ細っていた体躯が嘘のように、今では大きく育ったミーは、どこか威厳がある。最初は気弱だったが、今は堂々としている。育て方で、猫の性格は変わるのかもしれない。
「早く、私達の子にも、ミーを見せてあげたいですね」
今、礼子のお腹には、僕達の子供が宿っている。生まれる予定日までは、あと二ヵ月ほどだ。礼子と出会ってから、三年。僕は二十六歳になった。同じ歳の彼女もまた、二十六歳だ。僕達は、その後見つめ合ってから、どちらともなくミーを見た。
「ミーも私達の大切な家族ですから……生まれてくる子も、ミーを大切にしてくれるといいですね。逆にミーも、私達の子を気に入ってくれるといいんだけれど」
苦笑するように礼子が言った。僕は小さく吹き出す。
「子供ばかり構うと、猫は拗ねると言うね」
「まぁ……で、でも! 私はミーも構う自信しかありません!」
「子育ては大変だと思うよ? 僕は猫とは言え、ミーを育てるのが、本当に大変だったからね。つきっきりを覚悟しないと。勿論――僕達の子供なんだから、僕も一緒に育てるけどね」
「心強いです。ある意味、育児の先達ですのね」
そんなやりとりをして、僕達は笑い合った。
――そして、二ヵ月後。無事に僕達の子供が生まれた。ベビーベッドで眠る我が子は、幸せそうに眠っている。僕は、この子にも愛情を注ぎ、幸福を教えるつもりだ。僕はナオがくれたものを、生涯忘れない。同時に、ミーが教えてくれた生の感覚も、しっかりと意識している。
「はぁ……」
予想通り子育ては大変で、僕は溜め息をついた。
夜泣きをするから、僕と礼子は交互に起きては、世話をしている。
そんな時、あやしている僕や彼女のすぐそばに、いつもミーが立っている。今もそうだ。一瞥した僕は、赤子を抱きながら、佇むミーを見て、口元を綻ばせた。ミーの瞳は、どことなく僕を応援してくれているように思えた。
「頑張るよ」
そう告げてから、僕は吐息に笑みをのせる。
「ニャァ」
まるで人の言葉が分かるかのように、ミーが啼く。これは実によくある事だ。
手記を綴る。
さて。
このようにして、僕は様々な事を学び、喪失の衝撃から、救済されて立ち直ることができた。この記憶を、記録として、僕は残したいと思う。
そこで、僕はこの手記を書いたというわけだ。
タイトルを、当初僕は悩んだ。けれど、ありのままに書く事にした。
『ナオが死んだ。』
僕はこうして手記を綴り始めた。誰が読むのかは分からない。だがいつか、我が子に一度くらいは目を通してもらおうと思う。救済された僕の記憶は、僕にとってとても貴重で大切だ。もしこれを読む、『貴方』がいるならば、貴方にも僕は愛と幸福を知らしめたい。既に得ている方には再確認のための手記として、まだ得ていない方には、その道標になる手記であるように。僕はそれを祈る。
今、この手記を綴っている僕は、幸せだ。
―― 終 ――