公開中
命を換えよう
1
「ぁ、かはっ」
ナイフが腹に生えている。
血が赤いしみとなって広がり、新調した白いワンピースを汚す。
一歩、二歩と後ずさり、地面に仰向けに倒れた。
服が吸収しきれなかった血が地面にあふれ、血溜まりを作る。
犯人は通行人を突き飛ばしながら逃げ、自分はその様子を恨めしく見ることしかできない。
薄れゆく意識の中、この世への未練を心の限り叫ぶ。
ようやく行きたい高校を見つけた。
好きな作家の本は、来月発売だった。
この夏一番面白いアニメの最新話は、明日放送される。
今から友達と遊ぶ予定だった。
まだ、人生これからなのに。
夏見香織が伸ばした手は、こぼれる命を救えなかった。
2
「――ああ、かわいそうに」
「誰?」
香織は胡乱な目で目の前を見つめ、後ずさった。
「俺? 俺のことは気にしなくていいさ。ただ、君の願いを叶える存在だと思ってくれればいい」
「願い?」
「そう、願いだ。なんでも一つ、叶えよう」
香織は、聞こえた言葉を繰り返しただけのようだった。返事が来たことに驚いたようで、目をしきりに|瞬《しばたた》かせている。
しかし、次に口を開く時には前のめりになっていた。
「なんでも?」
心なしか、声も弾んでいる。
「そうだ。今なら、時間の巻き戻しもオマケに付けてあげよう」
「時間の、巻き戻し……」
その言葉が、香織の胸にすとんと落ちる。
あの瞬間を、死の瞬間をやり直せたら。
もっと生きたい。あのクソ野郎に、自分がやったことの報いを受けさせたい。
香織と全く同じように死んでみたら、あいつの行動も変わるのだろうか。
「命を交換する力」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
遅れて、その意味をじわじわ理解する。
命の交換。命の残り時間の交換だ。
あの瞬間の自分の命とクソ野郎の命を交換すれば、死ぬのはあいつで生きているのは香織。
「それは……ふふ、良いだろう」
その声を聞いた瞬間、またしても香織の意識が薄れ始める。
世界からの乖離。死と似た感覚に、香織は思わず「待て」を叫んでいた。
「待って!」
しかし、意識が薄らぐのは止まらない。
「最後に一つ、教えよう。もしその力を手放したかったら、もう一度願うといい。さすれば道は、開かれる」
「は!?」
突然言われた詩的な言葉に、香織はすっとんきょうな声を出すだけで応えられない。
そのまま|邂逅《かいこう》の場は崩れ、彼女をやり直しの地点まで送り届けた。
「っ、はあっ!」
香織は大きく息をする。続いて、腹に手を当ててナイフが刺さっていないか確認した。
「良かった、私、生きてる」
胸に手を当て、生を実感する。
自分を避ける通行人には目もくれず、香織は生き返った喜びのまま顔を上げた。
「ぇっ」
あいつだ。香織の命を奪った殺人鬼。
黒いパーカーに身を包んだ男が、百メートル先にいた。
男は、ポケットに手を突っ込んでいる。中でナイフでもいじっているのだろうか。
「逃げ――」
男に背中を向けようとするが、咄嗟に堪えた。
今、自分が逃げてどうする。この先起こる惨劇を知っているのは香織だけ。
その香織が逃げ出したら、他の人が犠牲になる。
香織は唾を飲み込み、震える足で一歩を踏み出した。
「大丈夫」
口の中で、何度も呟く。
夢か現実か分からないが、もらった力がある。
あれが夢ならば、あの男が未来の殺人鬼であるというのも、香織の妄想で済む。
だから、今はとにかく進むしかない。未来へ。
あの男が対面からやってくる。後十メートルほど。
香織の方へ寄ってきた。男はうつむいて地面を見つめている。
一メートル。どちらかが一歩進むだけで、互いの腕が届くようになる距離。男の手はポケットの中のままで、何かしてくる様子はない。
やはり、香織の勘違い、妄想だったのだ。男は何もしてこない。
このまま、無事にすれ違える。
香織がほっと息を吐いたのと同時に、彼女の腹を熱が襲った。
恐る恐る、目だけで腹部の状態を確認する。
――ナイフが突き立っていた。
男は何事もないふりをして逃げ出そうとしている。
この二つの事実を認識した瞬間、香織は男の腕を掴んでいた。
「逃がさない」
一度殺され、もう一度殺されかけた恨みを込めて。
自分と同じ目に遭えと。
『命を交換する力』を発動する。
――やり方は知っていた。
自分の命と男の命を対象に選択し、確定する。それだけ。
男が地面に崩れ落ちる。
香織はさしたる変化も感じられないまま、地面に横たわった。
(あれ……これ、私、このまま死なないよね……?)
何かがおかしいと感じた時には、もう後の祭り。
香織の意識は、死と同じような感覚に呑み込まれた。
3
起きて最初に目に入ったのは、知らない天井だった。
死後の世界や、邂逅の場ではない。
「良かった、生きてる……」
香織がそう声を発した横で、何かを取り落とす音が聞こえた。
「香織!」
「おかあ、さん」
目覚めたばかりで声が掠れている。
それでも香織の母は、目に涙を浮かべて香織の手を握った。
「良かった……ほんとに良かった」
「犯人は?」
自分の状態より、犯人のことの方が気になった。
「死んだわよ。原因は不明だそうだけれど」
母は暗い顔で言った。
「そっか。よ――」
良かった、と言おうとして、香織は口を閉じた。
人が死んだことを喜ぶなんて、不謹慎すぎる。
話しているうちに、病院の人が集まってきた。
先ほどの母の声が聞こえていたらしい。
香織の周りで繰り広げられる大騒ぎを見ながら、香織は医師に身を委ねた。
4
入院中のことだ。
立って歩けるようになった香織は、病院内の自販機まで飲み物を買いに行っていた。
前から、尋常でない様子の少女が歩いてくる。
香織は立ち止まって、その少女をまじまじと見つめた。
少女は、大きな熊のぬいぐるみを抱いている。テディベアというやつだ。
目に大きな涙を浮かべて、ずっと何か呟いている。
足取りはおぼつかず、左右にふらふら揺れていた。
これが生きている人間なのかと疑いたくなる。
香織が耳を澄ますと、少女が何を言っているか聞き取れた。
「指、もう治らないんだって。ピアノ、もうちゃんと弾けないや」
そんなことをずっと、何度も何度も、時には同じことを、腕に抱えたテディベアに言い続けている。
「わたし、これからどうすればいいんだろうね」
少女の目に昏い光が宿る。
そうしてうつむいたかと思えば、香織の方に顔だけ向けた。
「ねえ、お姉ちゃんはどう思う? わたしは、これからどうすればいいのかな」
体も香織に向け、ふらふら歩いてくる。
香織は答えられなかった。
香織までたどり着くと、少女の涙が溢れた。声に出して泣いてはいないが、鼻をすする音がする。
香織は服が汚れるのも気にせず、少女を抱き締めた。
(分かんないよ、私にも)
何か答えなければならない。答えなければ、この少女は最悪の道を選んでしまう。
けれど、この答えで良いはずはない。初対面とはいえ、少女は自分の気持ちをさらけ出してくれた。その思いを裏切るわけにはいかない。
まるで自分に彼女の全てがかかっているかのようなプレッシャーの中、香織は口を開いた。
「現実は変えられない。だから、自分が変わるしかない。人生は一つだけじゃない。選ばなかったもの、目を向けなかったことが色々ある。元通りにならなくても、同じぐらい良い選択はできるんじゃないかな」
それは、入院してから香織がずっと考えていたこと。自分は運良く未来を変える力を得たが、そうでなければどうだったかと。もしあれが自分の人生の終わりだったとしたら、素直に受け入れられたかと。
やり直す前、死の瞬間に浮かんだのはこの世への未練だった。
どうせ死ぬなら、満足して逝きたい。
それに、人生がよくなるように行動すれば、いつか会えるかもしれない。会って、現状を覆す力を手に入れられるかもしれない。
今死んだら――人生を諦めたら、きっとその時後悔する。
己の目から溢れる涙には気にも留めず、少女は目を見開いて香織を見ていた。
「……と、話しすぎちゃった。だいぶ時間経っちゃったし、さっさと飲み物買って部屋に戻らなくちゃ」
香織は手で髪を撫でながら言った。
「うん。今日はありがと」
少女が、小さな声で精一杯お礼を言う。
「ふふっ、じゃあね」
じゃあねー、と手を振って別れた。
5
後日。
どこから聞こえるのかも分からないし、誰から伝わるのかも分からないうわさ話。
香織はいつもそれを右から左へ聞き流すのだけれど、今日のはなぜか頭に入ってきた。
「――号室のえ――さんって分かる?」
話しているのは最低でも二人。香織には聞こえなかったが、相手の相づちで話が進む。
「そう、あのテディベアの子。かわいそうにねぇ、狙って小学生に突っ込むようなやつに轢かれて再起不能って」
香織は持っていたペンを落とした。
開いていた問題集に跡がつくが、そんなの今はどうでもいい。
今、なんて。
テディベアの子――この前会った子だ。ピアノを以前のように弾けなくなって、絶望していた。
彼女がそうなってしまった原因は、そんな阿呆にあったのか。
香織の時もそうだったが、なぜ人は他人の命を、夢を、希望を奪おうとする?
この世に絶望したのなら、他人に迷惑がかからないようにけりをつけろ――いや、それだと命がもったいない。
香織やあの子のように、理不尽に未来を奪われた、奪われかけた人がいる。生きたいと願っても、生きられない人がいる。
そんな人と、阿呆の命を交換する。
香織にはその力がある。
気がつけば、香織は自分の手を強く握りしめていた。
6
一ヶ月後。
ようやく医師からの退院許可が出て、香織は家に戻っていた。
とっくに学校は終わり、夏休みに突入している。
「んーっ!」
慣れ親しんだ家の中で、香織は思いきり伸びをする。
明日は遅めの三者懇談会だ。
正直、成績にはそこまで自信がない。さすがに2はないが、オール4に3がいくつか交じる程度。
きっと、成績を上げろと言われるだろう。
香織は軽くため息をついた。憂鬱だが、これから自分がやるべきことを知るためだ。行くしかない。
「あー、退院したばっかりで言いたくないんだけどね?」
うん? と香織が母に顔を向ける。
「宿題、やりなさいよ」
うへぇ、と変な声が出た。
そうだ。香織は中学三年生。受験生だ。
通常の提出物に加えて、総復習の問題集も課題として出される。レポート系の課題は出されないが、提出物にかかる時間としてはトントンになるだろう。
学校側はよかれと思って出しているのだろうが、香織にとってはいい迷惑だ。
香織の夏休みは、残り二週間と少し。
対して、問題集・プリント集合わせた、課題の残りページ数は二百ページ以上。
受験勉強の時間も確保しなければならないから、十五日で終わらせるとすると、一日十五ページやればいい計算になる。
一日十五ページならどうにかなるかと、香織はほっと一息ついた。
「後、受験勉強もね!」
この夏は、人間としての限界に挑むことになりそうだ。
まったく、どれだけ勉強させれば気が済むのやら。
「分かってるって」
口だけではないことを示すため、香織は適当な問題集を開いた。夏休みの課題一覧を取り出し、提出範囲を確認する。
「あ……」
習った時はできていたはずなのに。香織の手は、そんな問題でよく止まる。
これはいきなり問題を解いても駄目だと、教科書を開いた。先に内容を思い出してから問題を解く作戦だ。
そうして、香織の退院一日目は勉強に費やされた。
7
その日の夜。
香織は、日課のネットサーフィンを行っていた。
基本、香織は夕食後は勉強しない主義である。その代わり、日中はしっかり勉強する。そうして、勉強と自由時間のバランスを保ってきた。
死にたいと呟く人たちのコミュニティを、ぼーっと眺める。
見ていたところで、特に思うことはない。
せっかく健康な体を授かったのだから、そんな悩みぐらいなんとかして楽しく生きろ。――そう思わないこともないが、健康な人には健康な人なりの悩みがあるのだと納得している。
人間、どんな立場でも悩みはある。そのことで死にたいと思っている人たちに何か言う権利は、他人にはないと香織は考えていた。
けれど、命が浪費されるのは気になる。
だから、いらない人と欲しい人。両者の命を入れ替え、両者の望みを叶えるのだ。
そういえば、いた気がする。余命が短く、しかし生きることを諦めていない人が。
その人と、
「そうだな、この人」
今日実行すると呟いていた人を対象に指定する。能力が使えるようになった手応えを感じた。
顔も名前も所在地も知らない相手だが、無事に対象に指定できたようだ。
息を何度か吸って吐き、唾を飲み込む。心臓の動く音が、耳の中にうるさく響いていた。
(これから私は、人の命の行方を決める)
ここでうだうだやっていても何も変わらない。
やるならやる、やらないならやらないでどちらかに決めなければ。
もう一度深く息を吸い、実行した。
「――――っはぁ!」
息を荒く吐き出す。
あれほどうるさかった心臓は静まり、今は部屋の静けさが耳を刺していた。
額の汗を拭う。冷房が効いているとはいえ、やはり暑かっただろうか。
「……もう寝ようかな」
いつもより早いが、このままスマホをいじっていてもつまらない。たぶん、何をしても集中できないだろう。
いっそこれを機に朝型の生活にするか、と香織は呟いた。
歯磨きをしに部屋を出ると、テレビがつけっぱなしになっていた。机の上にはお茶がある。
香織は母がトイレに行ったのだと考え、歯を磨きに洗面所へ行こうとした。が、その動きが止まる。
自殺者数が過去最高になったというニュースだった。テレビでは、ゲストたちが自殺の原因について論じている。
その大体の結論は「職場や学校での人間関係のトラブルで心を病むから」というものだった。確かに、最近はいじめを苦にした自殺がニュースで取り沙汰されている。
テレビでは、頼りになる相談者を生むための取り組みだとか、人工知能の利用についてだとか、自殺を防ぐためにどうすればいいかを話していた。悩みを相談できる環境を作ろう、人工知能に自殺を推奨するような回答をさせないようにしよう、ということらしい。
当然ながら、一つのことを変えれば解決する問題ではない。長い時間をかけて、原因となる事柄を変えていかなければならない問題だ。
個人の努力も必要になる。
「……はぁ」
考えていると、どんどん暗い気持ちになってくる。
結局、職場や学校以外の居場所を作ることが大切なんじゃないかな、と思考を締めくくり、香織は洗面所へ向かった。
8
香織が今の生活に慣れてきた頃だった。夏休みもあと数日で終わる。
「おはよー」
朝起きてリビングに出てきた香織は、テレビのニュースを見て足を止めかけた。足が止まる前に再起動し、リビングの椅子に座る。
「テレビこれしかないの?」
チャンネルを変えてほしいと言外に匂わせる。
「おはよう。どこにしてもこれなのよ」
香織はため息をつき、テレビを見た。朝のニュース番組がついている。
テロップには、『原因不明の死、再び』と出ていた。十中八九、香織の力によるものだろう。
原因不明の死なんていくらでも起きているだろうに、わざわざニュースで取り上げるとは。殺人未遂の犯人と同じ死に方だからだろうか。
『…………脳の働きがおかしくなったわけでも、心臓が急に止まったわけでもない。体には何の異常もなく亡くなっており――』
コメンテーターの話を聞き流す。
力の細かい理屈には興味があるが、推測には興味がない。
「気味が悪いわねぇ」
テレビを見ながら母が言い、朝食を作り始めた。
『――速報です』
テレビにテロップが出るのとほぼ同時に、キャスターが新しい原稿を読み上げ始める。
テロップを見て、香織が目を見張った。
どこの国かは知らない。ただ、ネットやニュースで独裁者として有名な人だった。
彼が、ついに演説中に襲撃を受けたそうだ。だが、彼の周りを固めるボディーガードが体を張って彼を守った。彼は無事だが、そのボディーガードは瀕死の重傷。
その国でこっそりインターネットにつなげていた人が撮ったとされる動画が、ニュースで紹介されていた。
独裁者が何か喚き立てている。
ボディーガードがさっと彼を囲み、安全な場所への避難を開始した。
血の海に沈むボディーガードには一切の関心が向けられず、周りは独裁者の命を最優先に動いている。
香織の頭は真っ白になり、ほぼ無意識のうちに能力を行使した。してしまった。
対象をボディーガードと――に指定。実行。
『――っ!? 追加の情報です』
独裁者が倒れた。その情報を耳にして、香織は正気を取り戻した。
手が震え、周りの音が遠くなる。
今、ほとんど無意識のうちに、何をした?
香織がやっていいことは、命がいらない人といる人の命を交換することだけ。それと、奪われそうな人と奪いかけた人の命を交換すること。
そのどちらにも当てはまらない現状は、ただ命を弄んだだけ。
ルール違反だ。
香織は口元を押さえ、トイレに駆け込んだ。
9
それから一ヶ月後。
何年にも渡って独裁的な政治を敷いていた某国は、崩壊した。
国内をまとめようとする勢力は現れたようだが、いずれも国内全てをまとめるには至っていない。
崩壊後の某国にはいくつもの政府が分立し、国内の平定を求めて争い始めた。難民が世界中にあふれている。
香織たちの生活にも影響が出た。
某国に輸入の多くを頼っていた鉱産資源は、価格が高騰。それを使う分野にも価格高騰の影響が広がり、全体的に物価が上がった。
――香織は、一つ思うことがある。
(命に軽い重いはないっていうのは、やっぱりただの綺麗事だったんだ)
ボディーガードが背負うのは自分とその周りの極少数の命だが、国家元首が背負うのは国全体の命。
あの時、香織はとっさにボディーガードと国の指導者の命を入れ替えた。
もし、あの時入れ替えなかったら、悲しむのはボディーガードに近しい人たちだけだったかもしれない。
こんなにも大勢の人間の人生を狂わせずに、済んだかもしれない。
安定した暮らし。幸せな家庭。命に代えても守りたい、大切な人。
それらはあの男が死んでから崩れ去った。一部の人間を除いて、あの国での生活は危険と隣り合わせのものに変貌した。
それでも、香織は能力を使う。
スマホでネットの掲示板を開き、新しいスレッドを立ち上げた。
『人生に疲れた人たちが憩う場所』
『生きたい人たち集まれ』
相反するテーマのスレッド。
より効率的に命の交換をするために行き着いた方法だ。
対象を指定する。
さあ、命を交換しよう。