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第1話「Welcome to 混沌」
Ameri.zip
この物語はフィクションです。また、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
「本当に、良かったんだよな?」
男が、心配そうにこちらを振り向く。本当に良かったのか、そんなの僕が一番知りたい。この選択が、本当に正しいものだったのか、なんて。
視界が不安でぐらつくから、今の僕には下を向くことしかできない。無意識に浅くなっている呼吸を宥めるように手を握ろうとしたが、手汗で滑って上手く握れなかった。仕方がないので、ゆっくり大きく深呼吸をする。砂の上に、ぱたっと水滴が落ちていった。
濃い色が染みて広がるのを、ただ眺めていたかったが、彼の声で現実に引き戻される。
「零くんは恩人だから、何でも言うこと聞くって言ったのはオレだけどさ…」
思い出すように、男は正面から左上、そして左下に視線を反らした。濁した言葉の続きがどうにも見つからないらしく、彼は意味のない唸りを繰り返している。
"恩人"という大層で陳腐な言葉に、思わず笑いそうになってしまった。その瞬間、彼が笑われたと思って怒るかも、という考えが頭をよぎる。笑いは可笑しな呼吸に変換されたので、僕の心配は杞憂になったが。
彼はきっと僕が突然吹き出した程度で機嫌を損ねるような人物ではないはずだが、万が一にも彼に変な人物だと思われることは避けたかった。何せ、彼の方がよっぽど変な人間なのだから。
変な人間に「変な奴だなぁ」と思われるのは心外だ。
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僕を恩人と呼ぶ男___名をシイ・シュウリンと言うらしい、は突如として空から落ちてきた人間だ。何を言っているんだと思うかもしれないが、本当のことである。本当の本当に空から落ちてきて、しかも無傷だったのだ。
中国語によく似た言語で話す、やけにイケメンで謎に白髪なチャイナ風衣装の男。正直なところ怪しすぎて死ぬほど関わりたくなかったし、幸い人気が少なかったから見ないフリもできた。でもそこで彼に手を差しのべて、あまつさえ住むところと食事を与えてしまったのは、日本人の控えめな国民性によるものなのだろうか。
何はともあれ、一宿一飯の恩義に則ってかは知らないが、僕は彼に恩人と呼ばれるようになった。
そう、一応誤解のないように繰り返し言っておくが、僕は別に恩人呼びを強要したわけではない。というよりむしろ止めろとまで言ったのだ、何回も。それでも聞かなかったのは彼だし、そういうわけだから恩着せがましい野郎だと思うのは止めて欲しい。
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「…零くん?大丈夫?」
誰に向けてか分からない弁明をしていると、いつの間にか不安は収まっていた。その代わり、今度は男__否、シイさんが僕の顔を不安げに覗き込んでいる。
「あ…大丈夫、です。すいません」
「そう?ならいいんだけど…」
僕の返答が思ったより頼りなかったせいか、シイさんの不安は晴れなかったようだ。瞳には、未だ心配の色が宿っている。せめてこれ以上心労をかけるまいと、にっこり笑って見せた。…上手く笑えているかは知らないが。
一応大丈夫なことは伝わったようで、彼も優しい笑みを返してくれる。その姿が、昔の姉と少し重なった。
「そんじゃ行こ。…|混乱的城市《フィンランデ・チャンシィ》に!」
シイさんに手続きを済ませて貰い、城壁…のような国境を跨ぐ。兵士の人の視線がやけに纏わりつくようで、居心地の悪さを覚えた。それは単に見慣れない不審な男に対する警戒のそれのはずなのに、少しの恐怖と後ろめたさを覚えてしまう自分がひどく情けなく思える。そそくさと後にした城門の兵は、もう僕のことを見てすらいなかったのに。
しばらく歩いていると、シイさんに手を触られた。何だろうと思い顔を上げると、悪戯っぽく笑った彼に手を掬われ、あっという間に手を繋がれてしまう。
きっと僕は今間抜けな顔をしているだろうが、そんなことはどうだっていい。誰かと手を繋ぐのは小学生以来だったし、その相手だって殆どは姉だった。つまり、こんなほぼ見ず知らずの他人と手を繋ぐなんて初めてなのだ。てか手汗ヤバイ。引っ込め。
「んふ、ごめんね。…ちょっと、ここら辺物騒だからさ」
「えっ」
突如として知らされる治安の悪さに、思わず戸惑いの声が漏れる。心の中の手汗に対する焦りや緊張は、全て困惑に吹き飛ばされた。手を繋がなければいけない治安の悪さってなんなんだ。
怪訝な顔をしていると、シイさんがふっと顔を寄せてきた。なんだなんだと顔を引こうとするより早く、
「…左、路地裏の奥、見てみ」
と囁かれる。素直に従い左をちらと見ると、こちらを睨み付けるよう…否、値踏みするように見つめる男たちと目があった。今まで出合ったどの大人よりも、深く、じっとりとした目をした…
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。嗚呼、これは確かに、僕のいたところでは考えられない。ひゅ、と息が詰まっていたのを、シイさんが握る力を少し強めてくれたことでなんとか持ち直す。
「んね?手ェ繋いでれば、オレの見てないトコで浚われたりしないから」
「…、…!!」
こくこくと必死に頷くと、シイさんは顔を綻ばせ、手を優しく引いてくれた。大人しく、なるべく目を合わせず、足音は極力たたせないように気を配りながら、恐る恐る歩いていく。
少しでも物音をたててしまえば、路地の暗闇に潜む何かに見つかり、そのまま喰べられてしまうような気がしたのだ。
歩き出してから少しして。あまりにもガッチガチに固まっていた僕を見かねてか、シイさんがこの国の話をしてくれる。
「ここはね、|混乱的城市《フィンランデ・チャンシィ》っていうところなんだ。氷と戦の国って言われてて…実際に、冬はめっちゃ寒いよ。あと雨と雪めっちゃ多い」
「氷と…戦?」
随分物騒な単語が聞こえてきて、思わず首を傾げた。戦…というと、ここは戦争のある世界なのだろうか。いやまぁ、どの世界にも普通に戦争はあるか。
(…別に、元いた世界でも戦争はあったけど……僕がいたのは日本だからなぁ)
平和な国…というとだいぶ語弊はあるが、少なくともここよりはずっとマシだろうと思えるくらいには、怖い思いをしすぎている。実害があったわけではないのだが、それに関しては…うん、情けない奴だと思って欲しい。
「戦の国は、戦争めっちゃ強いってことね。んで…えー…治安が悪いよ!」
「あ、それはもう知ってます」
たはは、と笑うシイさんに呆れと少しの安堵が混じったため息をつく。治安が悪い、を具現化したようなこの場所にいれば、治安が良くないことなど嫌と言うほどわかることだからだ。本当に良かったのだろうか、と早くもここに来たことを後悔している。
一応ここは外郭地区という一番治安が悪いところらしいが、他がどうかは見るまで分からない。シイさんの話を聞いていると、法律がだいぶあやふやだったり、倫理観が終わりきっている所があるので国全体の治安が悪い可能性まで出てきてた。最悪である。
どうか他は日本並みにマシでありますように、と祈りながら歩き続けた。
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「あとちょっとで、内閣地区内でいっちゃん栄えてる|繁华的市场《ファンファーデ・シーチャオ》に出るかんね。ユーカイされないように気をつけなよ〜なんちゃって」
「随分と、物騒なんですね…」
角を曲がると、目の前に光が差し込む。心なしか、喧騒も大きくなっている気がする。
(…や、やっぱり不安!!!なんで僕着いてきちゃったんだろう…!!)
ぎゅ、と下唇を噛む。こうでもしないと、情けない本音が口から出てきそうだった。
治安が悪いと言ったって、まぁそれほどでも無いだろうと舐めていた。でも、路地を歩くだけでわかる。この国は、僕がいた日本とは比べ物にならないくらい治安が悪くて、殺伐としている。これまでぬくぬくとした環境で生きてきた僕としては、もうすでに来たことを後悔していた。ええ、そうですよ。帰りたいですが、何か?
ぐずぐずと心の中で愚痴を言っている間に、長く感じた路地に終わりがやって来た。まだ全然心の準備が出来ていないから、もうちょっと遅れて来てもよかったのに…。
暗かった路地裏から出たことで視界が一瞬で明るくなり、反射的に目を瞑る。恐る恐る目を開くと、そこには正に中華街といった風な街並みが広がっていた。
街中には不思議な服装の人が各々好き勝手歩いている。鮮やかな赤色ときらびやかな金色、それらを引き立てるような深緑は僕の目を刺すようにあちこちに散らばっている。
「ね、見た感じ怖くないっしょ?まぁ治安は悪いけどさ、良いとこなんだよ」
確かに、一度だけ見たあの街と殆ど大差無かった。強いて言うなら、足元のゴミが多いくらいだろうか。…本当に多いな。煙草や食べ物の包み紙…ひ、避妊具まで…?!
見てはいけないものを見たようで、すぐに視線を上に戻す。その様子を見ていたのか、男…シイさんは、可笑しそうにカラカラと笑った。腹が立ったが、何をされるか分からないため一緒に笑っておく。絶対に僕の顔はひきつっていただろう。
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「とりあえず連れてきたけど、家どうする?一応戸籍はこっちで用意できるけども」
さらっととんでもない言葉が聞こえてきた気がするが、さほど重要ではないことのため敢えてそちらは聞き流した。自宅どころか、この世界に来て何をするかさえ決めずに来てしまったなぁ…と、一人途方に暮れる。
家を借りるにもお金が無い。であれば、住み込みバイトでも探すべきだろう。その旨をシイさんに話すと、凄く微妙な顔をされた。え、なんだその顔。
「…零くんの世界ではどうか分かんないけどさ、こっちの世界だとね、住み込みの仕事って言うのは…」
言葉を濁されたあと、チョイチョイと手招きされる。近くに寄ると、耳元に顔を寄せて小声でこう伝えられる。
[…大体はそういうお店が殆どで、あとは軍とか、最悪人攫い目的の…]
「…止めときます。ありがとうございます」
「それが良いと思う…ゴメンね、ウチの治安が悪くって…これでも良くなったんだけど」
この国本当に大丈夫なのだろうか。あまりにも治安が悪すぎるし、それで良くなった方と言うのも些か信じがたい。
ならばどうするか。まさか、家無し生活…???何度か家の外で寝たことはあるが、流石に何日も続けては辛い…と、不安になる。何かアドバイスは無いかとシイさんの顔を見ると、やけにニヤニヤしていた。何が楽しくて笑ってんだコイツ。
「オレに良い案があります…!!!」
「…何ですか?」
息を吸って、吐く。そしてまた吸って、吐いて、吸って…
「…タメが長い!!…あっ」
つい本音が口から…怒っていないだろうかとシイさんの顔を見る。…なんだか、さっきよりもニタニタしている。なんだコイツ…
「へへ、零くん全然本音で話してくれなかったからちょっとイジワルしたの、ゴメンね」
ミリも悪いと思ってない顔だな…と呆れる。いや、それよりも早く言って欲しい。
いくらふざけた野郎だとはいえ、この世界には詳しいだろうし、恐らく僕よりもマトモな大人だ。どんな解決策があるのだろうか…
聞いて驚くなよ~?と、いらない前置きを挟まれる。なんというかこう、話が長い、面倒なタイプらしい。不安になってきた…
「その案がね、オレと一緒に住むってやつ。衣食住完備ですが、どうでしょうか!!」
何を言われたのか、上手く理解できなかった。聞き間違いのような気がしてもう一度聞くが、どうやら僕の耳は正常だったらしい。
良くないと分かっている。本音を出して刺激してはいけないと分かってはいるが、さすがにこれは言わざるを得なかった。
「…正気か???」
「ん?勿論!!」
前言撤回だ。コイツ、この国に負けず劣らずイカれてる。こんな大人に着いてきたことを、僕は今更ながらに後悔した。
(こんな国で、こんなイカれた奴と一緒にいて、本当に僕はマトモに生きていくことができるのか…?)
◇To be continued…
【次回予告】
「さ、最悪だ~…!!!」
「堂々とした浮気じゃんね(笑)」
「…お二人と…一緒に、住みたい…デス…」