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🗝️🌙第五話 かぼちゃの煮物と月の夜
それは、ぽつりとした雨音の夜だった。
梅雨入りにはまだ早いが、春の終わりのこの時期は、空の気まぐれがよくある。
こはるは、いつものように厨房に立っていた。
この数ヶ月で包丁の扱いにも慣れ、今では切り物のリズムに合わせて鼻歌がこぼれるほどだ。
夕方の営業も終え、まかないの仕込みをしていると、玄関の引き戸がカララ、と音を立てて開いた。
「こんばんは…遅くにすまないね。」
そこに立っていたのは、小柄な老婦人だった。
白髪を丁寧にまとめた髪。グレーのショールを羽織り、雨に濡れた傘を小脇に抱えている。
店内にはもう客はおらず、看板も"準備中"にしていた。けれど、その人の佇まいはどこか懐かしく、こはるの心を静かに叩いた。
「こんばんは。もう営業は終わってしまっているんですが…。」
「ああ、知ってるよ。…でも、どうしても、あんたのところの煮物が食べたくてねぇ。」
そう言って、老婦人はやや遠慮がちに笑った。
「ツヤさんの煮物、忘れられなくてさ。…あのかぼちゃの甘さ、あたしの娘が好きだったんだよ。」
こはるの心に、祖母の面影がふっと浮かんだ。
「…少しで良ければ、お作りしますよ。」
「そうかい。ありがたいねぇ。」
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厨房でこはるは、かぼちゃを切っていた。
かたい皮に包丁を入れるとき、ほんの少し手に力がこもる。
祖母の煮物の味――それは、甘くて、柔らかくて、口の中でほろほろと崩れる優しい味だった。
砂糖と醤油、みりんを少々。祖母が残してくれたメモ帳の端に、かろうじて読める配合があった。
でも、レシピだけではたどり着けない"味"がある。火の入れ加減、煮崩れしない時間、そして、なによりも"気持ち"。
鍋の蓋をして、火を弱める。ふと、店内に目をやると、老婦人は静かに窓の外を見ていた。
空には雲の切れ間から、満月が覗いていた。
「あの子がね、十五のときにね、夜空を見ながら"お母さんの煮物、月みたいな味がする"って言ったんだよ。」
「…月みたい、ですか?」
「あたたかくて、でも少し寂しくて。食べるとね、ほっとして、でも泣きたくなるような味。…あの子は、そんな風に言ってたよ。」
静かな声でそう語る老婦人の目には、すでき涙が滲んでいた。
こはるは鍋の蓋を開け、湯気に包まれた黄金色のかぼちゃをひとつ、箸で持ち上げた。形は崩れていない。匂いもよし。
そして、それを器に丁寧に盛り付ける。
「…ああ、やっぱり。ツヤさんの味が、するよ。」
老婦人は、かぼちゃをひとくち口に入れると、静かに目を閉じた。
「ありがとうね、こはるさん。あの子が亡くなって、もう十年になるけれど…この味を食べると、今も隣にいる気がするんだよ。」
その言葉に、こはるは思わず黙ってしまった。
料理とは、記憶だ。
ある味が、ある匂いが、ある日の景色を引き戻してくれる。
自分が作った料理が、誰かの"時間"を連れ戻すことができるなんて――
そんな奇跡のようなことが、本当にあるのだと、こはるは思った。
「ごちそうさまでした。また来ても、いいかい?」
「はい。いつでも、お待ちしています。」
老婦人が帰ったあとも、こはるはしばらく店内の灯りを消せなかった。
月の光が、かぼちゃの残り香に照らされて、やさしく揺れていた。
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その夜、こはるは祖母のメモ帳を開いて、ページの端にこう書き添えた。
『かぼちゃの煮物――
甘く、やさしく、でもほんのすこし、さびしく。
月みたいな味にすること。』
その言葉の横に、小さな星印をつけて。
記憶の味は、きっとこれからも、生き続ける。
こはるの料理の中で、誰かの涙の中で――そして、誰かのやさしさの中で。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
次回はリクエストを頂いている"冬の鍋"をテーマにお届けします。
お楽しみに。