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レールの境界
その日の海は、陽炎の中に揺らめいていた。
まるで水底に沈んだ青い夢のように、水平線の輪郭は曖昧だった。
「お母さん、海って溶けちゃうの?」
隣に座る娘の小さな手が、窓ガラスの熱気を帯びた曇りを拭う。
彼女の瞳には、生まれてからずっとこの景色が映り続けている。
私はその問いに答えず、ただ薄い笑みを浮かべた。
駅を出てすぐ、電車はゆっくりと速度を落とす。
目の前に広がるのは、白く輝く砂浜と、永遠に続くかのような青い海だ。
この路線は、海沿いを走るたった一本のローカル線。
毎日の通勤、通学、そして時折の旅人を運ぶ、生活そのものだった。
私はこの海が嫌いだった。
どこまでも続く青は、私の人生の選択肢の多さを象徴しているようで、いつも息苦しさを感じていたのだ。
もっと違う場所へ行けば、違う生き方ができたのではないか。
そんな後悔と期待が、陽炎のようにゆらゆらと心を焦がす。
「お母さん、向こうの島って人が住んでるんだよね?」
娘が指差す先には、ぽつんと浮かぶ小さな島影。
誰も住んでいないはずなのに、そう言って聞かない。
子供の想像力は、この退屈な景色さえも冒険に変えてしまう。
その無邪気さが、私を少しだけ過去の自分に戻してくれた。
かつて、私もこの電車に乗って夢を追いかけた。
都会へ出て、何かを成し遂げようと。
しかし、結局はこの海辺の町に戻ってきた。
母として、誰かの妻として、平凡な日常を選んだ。
それが正しい選択だったのか、今でも分からない。
電車が鉄橋を渡る。ガタン、ゴトンと響く音は、まるで時の流れを刻んでいるようだ。私は窓の外に視線を戻す。
陽炎の中、海と空の境界線がぼやけている。
どちらが上で、どちらが下なのか。
ふと、娘の手を握りしめた。
柔らかく、温かい。この小さな温もりが、私をこの場所に繋ぎ止めている。
「お母さん、やっぱり海は溶けないよ。ちゃんとここにある」
娘が自信満々にそう言う。
私は初めて、心からそうかもしれないと思った。
例え陽炎の中に揺れていても、形がぼやけていても、海は確かにそこにある。
私の人生も、回り道をしたように見えて、結局はここにたどり着く運命だったのかもしれない。
電車は終着駅に向けて速度を上げた。
もう後悔はない。
私は母として、この海と共に生きる。
陽炎が消える夕暮れ時、私たちはまた、この電車に乗って家路に着くだろう。
その日常こそが、私が選んだ唯一の真実なのだ。
窓の外の景色は、もう私を焦がさない。
ただ、穏やかにそこにあるだけだった。