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〖第四話〗 夜の階段を、もう一度
翌日の午前十一時、望月紗季はカフェの窓際に座っていた。
外はまだ梅雨の残滓を引きずるように、濃い灰色の雲が空を覆っていた。雨こそ降っていないが、風は湿っていて、街全体がくぐもった音の中に閉じ込められているようだった。
コーヒーの香りは、ささやかな安心を与えてくれる。しかし、今の彼女にとっては、その香りさえも過去の記憶を呼び起こす引き金になりうる。
彼女が待っている相手は、"片瀬 航"。
大学時代、芹沢律の詩を最も高く評価していた男。そして、彼の死後、一度も連絡をとっていなかった数少ない"文芸サークルの生き残り"だった。
十一時五分、カフェの扉が開き、懐かしい面影が姿を現した。
「……久しぶりだな、紗季」
落ち着いた声だった。紗季が記憶していた声より、ほんの少しだけ低くなっているように思えた。
片瀬航は、変わっていなかった。背は高く、長い指、そしてどこか神経質な眼差し。けれどその視線の奥には、かつて見たことのない翳りがあった。
「こんなふうに会うのは、何年ぶりだろう」
「……七年ぶりくらい、かしら。律が死んだときも、私たち……顔を合わせなかったから」
彼は目を伏せ、小さく頷いた。
互いの沈黙が数秒流れた後、彼は不意に切り出した。
「倉敷という刑事から、連絡があった。"律の件で、話を聞きたい"って」
「ええ、私のところにも来た。……あなた、覚えてる?六月二十四日、律が死ぬ前日――サークルで集まった、あの夜のこと」
片瀬の表情が微かに動いた。スプーンの動きが止まり、コーヒーの表面が静かに揺れる。
「……あれは、忘れたかった夜だよ」
「でも私たち、何かを"忘れたまま"にしてしまっていた気がするの。律のあの詩――"誰かが誰かを突き落とす音"。ねえ、あれ、何かの暗喩じゃなかったと思う。現実に起きたことだったんじゃないかって……思い始めてるの」
片瀬は暫く黙っていた。けれど、その沈黙の中に"葛藤"があった。
やがて彼は静かに言った。
「実は、あの夜……律は俺に、ある"封筒"を渡したんだ。"誰にも見せるな"って」
「封筒?それって――」
「開けなかった。開けられなかった。……だけど、昨日、久しぶりに押し入れの中を整理していて、それが出てきた。俺、見たんだ。中に入ってたのは……"詩"だったよ。でも、普通じゃない。"暗号"みたいだった」
紗季の心臓が強く脈打つ。やはり、芹沢律は"遺した"のだ。
誰かに向けて、言葉を使って。
「……見せてもらえないかしら」
片瀬は逡巡した。けれど、紗季の目を見て、覚悟を決めたように頷いた。
「今、持ってきてる。君に見せようと思って……」
彼は小さな封筒をバッグから取り出した。黄ばみかけた紙、封は開けられていたが、まだ整然としている。紗季は手を伸ばし、そっとその中身を取り出す。
折り畳まれた一枚の便箋。そこには、芹沢律の筆跡でこう書かれていた。
**"君たちが見なかったものを、言葉に託す。**
**夜の階段は、一つだけじゃなかった。**
**突き落としたのは、誰だ。**
**見ていたのに、見なかった者よ。**
**沈黙は、共犯だ。**
**"赤い靴"を履いた彼女が、落ちていった。"**
その瞬間、頭の奥がに強烈な"記憶の閃光"が走った。
――赤い靴。
――階段。
――叫び声。
「……片瀬……これって……誰のこと……?」
彼は目をそらした。言葉を飲み込んだその表情は、何かを"知っている"顔だった。
「……君も、知ってるだろ。思い出したくなかったんだ。俺たちは……みんな、見て見ぬふりをしたんだよ。律が、そう言いたかったのかもしれない」
そのとき、紗季のスマートフォンが震えた。表示された名前は――"倉敷 隼人"。
彼女はすぐに通話ボタンを押した。
「もしもし、望月です」
『……今すぐ、お伝えしたいことがあります。赤羽理子さんが――今朝、自宅で遺体で発見されました』
静電気のような衝撃が、全身を貫いた。
赤羽理子――大学時代、律と最も親しかった女。
彼女は"赤い靴"を愛用していた。
"沈黙は、共犯だ"
律の詩が、今になって現実を撃ち始めている。