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**初恋じゃ、終われない**
蓮が言った。
「僕、あなたにまた会いたくて、ずっとここに立ってたんですよ。」
たったそれだけで、胸の奥が苦しくなるほど嬉しかった。
でも、それと同時に怖くなった。
`——“初恋”だけで、片付けられたくない。`
それが、柚子月の本音だった。
翌日、雨は止んで、空が高かった。
放課後、柚子月は小さなカフェでひとりアイスティーを飲んでいた。
スマホの通知を何度も確認する。蓮から連絡が来るわけでもないのに。
(また、あのホームで会えるかな……)
ふと、店内のテレビから、文学賞のニュースが流れた。
「青蘭大学の学生、椿谷蓮さんの掌編が最終選考に——」
柚子月の手が止まった。
(……え? 掌編? そんな話、してなかった)
テレビの画面には、短いインタビュー動画が映った。
そこには、いつもの彼とは違う、少し緊張したような表情の蓮がいた。
「文章にすることでしか、伝えられないことがあると思うんです。」
(……私、この人のこと、全然知らないかもしれない)
蓮の隣にいた女性のことじゃない。
彼自身のことを、何も知らないという事実が、突然リアルに迫ってきた。
夕方、再びホームで蓮に会った。
「テレビ、見ました。すごいですね……あの賞。」
「あ、見ちゃいましたか。……恥ずかしいですね。」
蓮は少しだけ照れたように笑ったけど、その目はどこか遠くを見ていた。
「ねぇ、蓮さん。……文章にすることでしか、伝えられないことって、たとえばどんなこと?」
彼は黙った。
それから、そっと視線を下ろしながら呟くように言った。
「……誰かに言葉を残しておきたかったんです。ちゃんと、思っていたことを。」
「“誰か”って……昔の、誰かですか?」
蓮はしばらく黙って、それから小さくうなずいた。
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「雨の日に、傘を差し出した女の子がいて——
それから、その子のことが忘れられなくなったんです。」
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心臓が、跳ねた。
でも彼は、あくまで静かに、まるで物語を話すみたいに続けた。
「でもね、その子は、僕のことを忘れてしまったんです。きっと当然です。あれは子どものころの、ほんの数日の記憶だから。」
「……忘れてませんよ。」
柚子月は、小さな声でそう言った。
蓮の目が、動いた。
「え?」
「私……覚えてます。紫陽花の坂道。風邪ひいた私のそばにずっといてくれたこと。
あなたが言った言葉。……“僕は雨がきらいじゃない”って。」
蓮の目が、大きく見開かれた。
「……向日葵さんが、あのときの——?」
柚子月はうなずいた。目が熱くなった。
「だから……“初恋”で終わらせたくないって思ったんです。」
彼は、驚きと、それからゆっくりとした安堵のような笑みを浮かべた。
「……こんな偶然、あるんだな。」
駅のホームに、ゆっくりと電車が滑り込んでくる。
人々の喧騒の中、二人だけが、静かに見つめ合っていた。
紫陽花の季節は、まだ終わらない。
そして——“再会”から、“何か”が始まろうとしていた。
📘第6話「距離、縮まる午後」
——初めてのふたりきりの時間。柚子月と蓮、ささやかな“約束”へ。