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🗝️🌙第二話 おにぎりに込めた言葉
春の朝は、どこか水の匂いがする。
こはるはその匂いを吸い込みながらも、軒先の暖簾をそっと揺らした。「しろつめ草」と墨字で書かれた祖母の手作り暖簾。昨日までにはなかったこの布は、隣に住む青山しのぶが持ってきてくれたのだ。
「アンタ、暖簾も出さずに何が店よ。まずは"やってます"の顔をしなさい。」
口は悪いが、ありがたい存在だった。祖母の代からの常連だという彼女は、こはるにとって初めての"味見役"であり、何より店の空気を保ってくれる人でもあった。
こはるは、昨日よりも少しだけ早起きして、炊き立てのごはんを鍋に移した。今日のメニューは、おにぎり。理由は単純だった。
――朝、夢を見た。おばあちゃんが、私におにぎりを握ってくれる夢。
「おにぎりなんて簡単そうで、実は一番難しいんだよ。」
夢の中で祖母はそう言って笑っていた。
その言葉が、なぜだか耳に残っていた。
午前十時半。まだ客の気配はない。暖簾越しに街の音がかすかに聞こえる。通りを行く自転車、犬の鳴き声、近所の豆腐屋のラッパ。
その音を聞きながら、こはるはキッチンの奥で、おにぎりの練習をしていた。具は二種類。梅干しと昆布の佃煮。
米は「秋田こまち」。少し水を減らして炊いたふっくら硬めのご飯に、手のひらでぎゅっと空気を含ませながら握っていく。
――あれ?なんか、いびつ?
こはるは眉をひそめた。おにぎりの形がどうにも不格好だ。まるで石ころのような、無骨な三角。思わずため息が出る。
――おばあちゃん、どつやってあんなに綺麗な形にしてたんだろう。
手を休めたとき、ガラガラと扉が開いた。
「あの…やってますか?」
細く、しかし確かな声。ふと顔を上げると、小柄な老婦人が立っていた。
「はい、どうぞ…!」
こはるが慌ててカウンターへ案内すると、老婦人はおずおずと席に着いた。白髪を丁寧に結い上げ、地味なグレーのコートに身を包んでいるが、その目は若々しく澄んでいた。
「何か、召し上がりますか?」
「できれば…おにぎり、ひとつ。」
「…おにぎり、ですね。梅と昆布、どちらがよろしいですか?」
老婦人は少し黙って、それから小さく口を開いた。
「昆布を、お願いします。できれば…ちょっと塩気が強めの。」
「はい、かしこまりました。」
こはるは緊張しながら、再びごはんに向かう。塩を指先に少し多めにつけて、昆布を中心にのせ、手早く三角にまとめた。形は…やはり不格好。でも、それなりに"おにぎり"には見える。
湯呑みにお茶を注ぎ、おにぎりを皿に乗せて、そっと老婦人の前に出す。
「お待たせしました。」
「ありがとう…。」
老婦人は、おにぎりを手に取った瞬間、目を閉じた。
「…懐かしいわ。」
そして、ひとくち。
噛む音が、空気にすっと溶ける。
「…塩加減、ちょうどいいわね。若い人が握ったにしては、ずいぶんと懐かしい味。」
「ありがとうございます。実は、今日初めて、ちゃんとおにぎり握ったんです。」
「まあ、そうなの?」
老婦人は微笑んだ。だがその目の奥に、どこか哀しみの色がにじんでいるように見えた。
「昔ね、夫が大の昆布好きだったの。あの人、口では何も言わなかったけど、私のおにぎりをいつも最後まで残して、じっくり味わってた。…その食べ方が何だか可愛らしくって。」
「ご主人、いまも…?」
「ええ。もう、十年も前に亡くしたの。毎週日曜日に、ここの近くの図書館に通っててね。その帰り道、必ずどこかのベンチで、私の握ったおにぎりを食べてた。」
こはるは、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
おにぎりが、ただのごはんの塊じゃないことを、初めて知ったような気がした。
「…それで、あなたも今朝、図書館の帰りに?」
「ええ。あの人が座っていたベンチの前を、今でもときどき歩くの。するとね、あの人の背中がそこに見える気がして…。それで、おにぎりが食べたくなったの。」
老婦人は、ふうと息を吐いた。
「…不思議ね。初めてのお店なのに、昔食べた味と、そっくりなの。」
「本当ですか?」
「ええ。なんていうのかしら…"丁寧"な味。」
こはるは、まるで誰かに褒められた子どものように、胸がじんとした。
料理の経験も、プロの腕もない。でも――気持ちは込めた。ちゃんと、美味しくなあれ、と願いながら握った。
それが、ちゃんと届いた気がした。
老婦人が帰ったあと、こはるは一人でキッチンに立ち、もう一つのおにぎり――梅を握った。
塩加減は控えめに。祖母がよくやっていたように、梅干しをほんの少し叩いてから入れる。
ひとくちかじると、すっぱさの奥に、炊き立てごはんの甘みが広がった。
「…やっぱり、おにぎりって奥深い。」
思わずこぼれた言葉に、厨房の壁にかけられた祖母の写真が、少しだけ微笑んでいるように見えた。
その日、店のメニュー表には、こう書き加えられた。
"「おにぎり定食(梅・昆布)――各250円」"
シンプルで、でも、きっと誰かの心に残る味。
"レシピは心でできている。"
その言葉が、少しずつ、形になり始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回は「焼き魚と沈黙の父」。
突然現れた無口な男性客。その正体は、こはると長年会っていなかった実の父だった――。焼き魚に込められた、親子のわだかまりと、静かな和解の予感。
次回もご覧いただけると嬉しいです。