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ガラスのような貴方 第6話
「さよならー!」
「気をつけて帰れよ〜」
体育祭もテストも終わり、生徒たちの気が抜けまくっている7月の金曜。梅雨なのに全然雨降らなかったな、と思っていたら今日は大雨が降り、生徒たちは4時間目まで授業を受けたあと給食を食べて下校することになった。
「帰ったらゲームしようぜ!」
「いいよ!電話しながらやる?」
「ナイスアイデアじゃん。よし、早く帰ろ」
なんて言葉が廊下から聞こえてきて、少し羨ましい。俺も帰ってゲームしたい。発売日に買ったゲームソフトも、登録だけして全然進められていない。そんな俺は、いつも車で来ているのに今日という日に限って電車と歩きで来てしまった。2週間に1回とか、そのぐらいのペースでたまに歩いて行く日を設けているが、まさかそれがこんな大雨の日に被ってしまうとは。ひとまず自分が担任を務める教室の戸締まりをし、職員室へ向かう。
「いやー、生徒たち嬉々として帰っていきましたね」
「放送流れた時の喜びよう、すごかったですもん」
教師としては喜んで帰られるのは少し寂しいが、自分の学生時代を思い出すと早帰りの日はだいぶテンションが高かったし同じようなものか、という感じだ。それより、今日は何時頃帰ろうか。まだ2時にもなってないし、テストの丸つけがまだ終わってないからひとまずそれを最優先にしなければならない。職員室だと他の先生の会話が気になって聞き耳を立ててしまうし、木工室に行ってもいいけど広い部屋で一人というのもだいぶ落ち着かない。準備室に行けば、福田先生に会えるだろうか。俺はそう思い、パソコンなどを持ち席を立つ。
「あれ、本間先生どこ行くんですか?」
「気分転換に木工室で仕事してきます」
「なるほど」
流石に、福田先生に会いたいから準備室行ってきますとは言えない。俺はニヤけそうになる表情筋をなんとかコントロールしながら、職員室を出た。
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「あ、やっぱりここにいた」
「おや、こんにちは」
予想通り、福田先生は準備室にいた。先生も丸つけをしていたのか、生徒の答案が入った封筒や模範解答が机の上に散らばっている。
「本間先生は、ここで作業しに来たんですか?」
「ええ。大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。ちょっと散らかってますが。こっちの机空いてるのでどうぞ」
「ありがとうございます。お邪魔します」
お互い集中して作業しており、しばらくの間準備室の中は雨音とパソコンのタイピング音だけが響く。いつもの放課後なら聞こえる吹奏楽部の演奏も、グラウンドからの掛け声も、今日は聞こえない。ちなみに俺は今、2年生の分のテストの丸つけ中だ。2年ほど前、当時の1年生のテストで模範解答を間違えて生徒たちの本来は合っている回答が間違い判定になってしまったことがあるため、それ以降模範解答を作る時は一日に三回ぐらいはチェックするようにしている。その当時の1年生も今は3年生というのが、時の流れが早すぎて恐ろしい。福田先生は昨年度からうちの学校に来たので、今の3年生が1年生だったところを知らないんだよな。まあ俺はその時3年生の担任をしていたから、俺もよく知らないけど。
「こんな静かな学校、珍しいですね」
20分ほど経ち、俺の方から口を開いた。
「生徒たちがいないと、別の場所みたいですよね」
「自分から来たからこんなこと言うのもあれですけど、なんか2人っきりってのも落ち着かないですね」
「…………私は、別にこういう時間も好きですよ。非日常って感じで」
「………え?」
福田先生にそう言われ、段々と顔が熱くなるのを感じる。顔どころか、耳まで熱くなってきた。色んなプリントやテキストが積まれているせいで先生の顔がよく見えないが、つまり俺の顔も見られていないということか。少しそれに安心しながら、俺は仕事を続けた。
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俺が準備室に来てから1時間と少し。先生も俺もようやく一息つけたので、2人とも立って大きく伸びをする。雨はまた少し強まり、雷の音がたまに聞こえる。
「疲れましたね。外だいぶ暗いのに、まだ2時半ってなんか変な感じ」
「ですね。今は夏ですし、日も長いはずなんですけどね」
「理科教師っぽいこと言ってますね」
「このくらいは本間先生も知ってるでしょう?」
どうでもいい会話をしつつ休憩していると、緩んだ空気を引き裂くように窓の外が強く光った。
次の瞬間、腹の底に響くような大きな雷鳴が轟いた。
「……っ!」
驚いた俺の心臓が大きく跳ね、近くにいた福田先生の腕を思わず掴む。反射的に体が動いたが、理性が追いついてきて慌てて離す。いや、離そうとした。俺の手首はいつの間にか福田先生の手に包まれており、じんわりと温かさが伝わってくる。
「怖いんですか?」
低い声が、雨音と雷鳴の中に紛れて俺の耳に届く。
「別にっ……ちょっと驚いただけですよ」
そんなことより、心臓のバクバクが手首から先生に伝わってしまうんじゃないかと俺は気が気じゃない。
「本間先生がそんな顔をするのは珍しいですね」
「からかわないでもらっていいですか………」
雷で驚くような子供っぽい面を見せてしまった恥ずかしさと、すぐ近くに福田先生の顔があるドキドキと、手首を優しく包まれている少しの喜びがないまぜになり、もう本当に感情がジェットコースターだ。しばらくお互い黙り込んでいると、福田先生はゆっくりと手を下ろして俺の手首から手を離し、今度は俺の手を優しく握ってきた。
また雷鳴が響き渡り、体に力が入る。先生はそんな俺の背中をゆっくりと撫で、手を握りしめて落ち着かせてくれる。
「………ありがとうございます」
「いえいえ。嫌じゃないですか?」
「全然、嫌じゃないです」
「なら良かった」
それからまた、準備室の中には沈黙が流れた。生徒がいない校舎は静かで、廊下を通る先生もいない。2人だけの小さな世界にいるようで、雷に驚いて強ばった体が少しずつほぐれていく。いつまでもこの時間が続けばいい。俺は心の片隅で、そう思った。