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2-3 やり過ぎ
「そこまで! 勝者、ノル!」
監督官の声が試合の終わりを告げる。
俺は首筋を伝う汗をぬぐい、わざとらしく息を乱した。
野次馬の歓声が訓練場の空気を揺らす。
対戦相手は、ぐったりと地面に倒れ伏したまま動かない。
「すごいな、ノルってやつ。武器なしの模擬戦闘なら、あいつが最強だったのに」
俺たちを囲んで交わされる会話が、嫌でも耳に入る。
俺は、ただ一つの感情に支配されていた。――ああ、やってしまったな、と。
ルーカスと別れた後、俺は近くの人間に道を聞き、訓練場に向かった。
「おお、すごい」
訓練場の天井は、俺が全力で跳んでも届かないほどに高かった。
高さだけではなく、大勢の人間を一度に収容できる広さも有している。
それだけの広さの建物に、人が集まって武術の訓練をしている様子は、圧巻の一言だった。
ひとまず、隅の邪魔にならなさそうなところで体をほぐす。これなしで戦って戦えないことはないが、やはり体の可動域が段違いだ。
それから、型の確認。
俺は邪術や魔法を使って戦うため、純粋に体術だけで戦うことは少ない。邪術などを併用すると、今やっている型とは少し違う動きになる。それでも、基本というものを大切にしたかった。
体が良い感じに温まってきた。
次は、壁を利用した立体的な動きの練習を――というところで、後ろから声を掛けられる。
「良ければ、俺と手合わせしてくれないか?」
汗で額を濡らした男が、俺に朗らかに笑いかけた。
なぜ俺に声をかけたのかは分からない。
手合わせしたいなら、俺の他にもっと強そうな人間がいるだろう。
まだ訓練を始めてすらいない俺は、暇そうに見えたのだろうか。
手合わせ――予定になかったことだが、ここの人間の力を測れるという点で、むしろ俺にとって好都合か。
「良いぜ」
俺が返事をすると、男は近くの人間に声を掛けた。
俺と男が向き合い、声を掛けられた人間がちょうど中間の地点に立つ。審判まで用意するとは、随分本格的だ。
「準備はできましたか?」
審判に問われ、俺と男は揃って頷く。
「では――始め!」
その声と共に、俺は思い切り踏み込んだ。もちろん床が抜けない程度に。
素早く相手の懐に潜り込むと、相手の足を踏みつけ、身動きが取れないようにした。
その状態で胴体に拳を叩き込み、離れる。
しまった、少しやり過ぎたか? ルーカスを想定してやってしまった。
俺が相手の攻撃を待っていると――、
「終了!」
審判が声を上げ、男に駆け寄る。男は気絶しているようだった。
俺、そこまで強くやったかなあ。
その場に腰を下ろし、視線を上げる。偶然こちらを見ていた人間と目が合い、なんとなく気まずくなって目を逸らした。
逸らした先でも、また別の人間と目が合う。何だかおかしいと思って辺りを確認すると、衝撃の事実が明らかになった。
みんなが、俺を見ているのだ。訓練の手を止めて、じっと。
「俺も、手合わせ良いか?」
妙な沈黙の中、その沈黙を作っていた人間が声を上げる。
「ああ」
断る理由はない。
「――始め!」
先ほどと同じ人間が審判を務め、手合わせが始まった。
今回は様子見に徹する。下手に手を出して手合わせが終わってしまうのを防ぐためだ。
俺が待ちの姿勢を見せると、相手はこちらに向かってきた。
拳――左、右、左、左か。
体を軽く動かし、紙一重で避ける。
反撃に移らず、攻撃の続きを待った。
相手の腕がこちらに伸びてくる。このまま腕を絡め、体勢を崩す気か。
だが、俺もそう簡単にしてやられるつもりはない。
体勢を崩されないよう、両足でしっかり踏ん張る。
相手は俺の体が動かないことに困惑し、気が逸れた。
すかさず相手を掴み、投げ飛ばす。
鈍い音が響き、相手は立ち上がれない。
「終了!」
わぁ、と歓声が上がった。
近くの人間が駆け寄り、男を助け起こす。意識はあるようだった。
「強いな……名前は?」
「ノルだ」
俺と男の会話が続いたのは一瞬だった。
「次は俺と」
「いや俺だ!」
「僕もお願いします!」
次々と対戦希望の人間が現れ、会話どころではなくなったのだ。
こうして俺との手合わせの流れが構成され、審判が監督官を名乗る男に代わり、今に至る。
俺がここに来たのは、体術もある程度できるという事実を作るためだった。腕に覚えがある人間をなぎ倒すためじゃない。
やり過ぎた。事実の整合性が取れなくなる。
俺がこれだけやれるのなら、アシュトンと対峙した時にもっと戦えた。モンスターにだって、もっと違う対応の仕方があった。
ああ、どうしよう。ここにいる全員の記憶を改ざんするか? 邪術には対応するものがないが、魔法を使えばできる。この人数を相手に一気に行うのは難しいが、数人ずつに分ければいける。いや、記憶の改ざんは同時にやらなければ意味がない。改ざん途中に抵抗される可能性がある。
もっと別の方法――そうだ、ここにいる全員を説得して黙っていてもらうのは? これなら邪術で問題なくできる。
もう月は昇り始めているはずだ。すぐ終わる作業をやるのに、十分な条件。
よし――接続開始。
地獄の月と繋いだパスを辿る。
地獄の月の力を引き出し、この世界の月に顕現させていく。
魔界でやった時より引き出せた力は弱いが、月がまだ昇り切っていないのだから仕方ない。
目を閉じて、邪術を発動する。
「『|治れ《ブエル》』」
今の手合わせで人間が負った傷を癒やす。
「『|感情支配《ガープ》』」
小さく呟き、要求を述べる準備を整えた。もっと強いのもあるが、それだと分かりやすい痕跡が残る。
「俺は訳あってここに来た。今はまだ、俺の力についてバレるわけにはいかない。だから――今回のことについて、黙っていてくれないか」
訓練場全体に聞こえるよう、精一杯声を張った。
『|感情支配《ガープ》』で俺への感情を最大限プラスに補正した。だから、俺の頼みを聞いてくれるはず。
「おう!」
「ああ」
「良いぞ!」
訓練場の中から上がる声は、承諾のものばかり。俺の目論見は成功したようだ。
俺はほっと胸を撫で下ろし、
「ありがとう!」
訓練場全体に聞こえる声で叫んだ。
――接続解除。
ここの月と地獄の月とのつながりが完全に切れたことを確認し、目を開く。
そのまま、何食わぬ顔で訓練場を出た。
「……ルーカス」
嘘だろう、こんなところにいるなんて。中のやり取りが聞こえていなかっただろうか。
心臓が血液を送り出す音が耳の奥で響いているのを感じる。
ルーカスがこちらを振り向いた。声に出てしまっていたのか。
ああ、歩いてくる。
「ノルじゃないか」
動揺が顔に出ないように気をつけ、ルーカスの接近を待つ。
「ちょうど良かった。伝えたいことがあるんだ」
「ああ。どうしたんだ?」
「明日のことなんだけど。諸事情あって、明日ノルには団長と一緒に行動してもらうことになった」
このタイミングで?
先ほどの行動が原因ではないだろう。早すぎる。
俺の監視か、俺に釘を刺すためか――いずれにせよ、良い気はしない。
「分かった」
「うん。よろしく」
ルーカスは進もうとしていた方向に体を向け、歩き出した。
これを伝えるためだけに来たらしい。
ルーカスが角を曲がって見えなくなり、俺はようやく一息つく。
良かった、今のことがバレたわけじゃない。
この後、俺は自分の部屋に戻って静かに過ごした。これ以上何もやらかさないように。