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雨後の魔法使い
「お母さん」
暗く陰鬱な部屋の中。古い壁紙に染み込んだ煙草の残り香が、|黴《かび》の香りと混ざり合ってむせ返る。窓の外に降る雨が、細身の少年の声を掻き消すように騒々しくザーザー泣き喚く。
少年は薄汚れたシャツの裾を両手で力強く握りしめ自分を鼓舞すると、震える声でもう一度名前を呼んだ。
「...お、母さん」
声は前よりも一層小さくなり、空井戸のように真っ黒な目の女の意識には、全くもって届いていないようだった。少年は握り拳を力無く緩めると、俯いて玄関から外へ出ていった。風が彼を急かすように家の窓をけたたましく叩き続けていた。
少年は一人で歩き出す。華奢なその体は強風に煽られて今にも吹き飛ばされてしまいそうだ。しかし彼にとっては全てどうでもいいことだった。今はただあの家も、あの女も、この世のありとあらゆるものが憎くて仕方なかった。雨風などは意識の外に放り出されていた。
風が大きく彼を煽り、ふらついた先で|脛《すね》が何かに触れる感覚がした。それはゴワゴワとした大きな毛玉だった。
驚いた少年は咄嗟に距離を取り、その黒い毛玉をしばらく見ていると、それはやがてモゾモゾと蠢き始めた。よく見るとそれは黒い小型犬だった。
「おまえ...」
少年はその震える犬の近くにかがみ込み、ぬくもりを確かめるようにそっとそのごわついた背中に触れた。犬はひどく冷え切っていた。少年が犬を抱き抱えてどこかに避難しようとしたその時だった。
力強い突風が吹き、少年は体勢を崩して抱えていた犬を思わず落としてしまった。彼は犬がアスファルトの地面に叩きつけられるかと思った。しかし重いものが落ちる水の音も鈍い音も全くしない。少年が目を瞑っている間にさらに強い風が吹き、犬は空の彼方へと吹っ飛ばされてしまっていたのだ。
「...っ!?」
少年は仰天して犬の飛ばされた方にぐるりと顔を向けたが、次の瞬間には自分自身も天空に舞い上げられていた。風が回転して二つの生き物を上へ上へと巻き上げていく。少年は死を覚悟して風に身を任せた。
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意識を取り戻した少年は、瞼の裏側に透けて差し込んでくる柔らかな光で目を覚ました。
視界には青々としげる緑の草木、ラムネ瓶のように透き通った青い空に、わたあめのようなパステルカラーのまだらな雲が散らされている。
少年はここが現実かどうかもわからないまま起き上がり、満員電車に乗った後のように重い頭を起こした。
「なんだ、ここ。」
周りを見て初めて気がついたのだが、ここは明らかに少年の住む街ではなかった。|鬱蒼《うっそう》としげる森、その中の一本の木がのそりと動き出す。
「え...今、動いた?木が?」
少年は今動いたかのように見えた木をじっと観察する。すると次はその横の木がのそりと動いたような気がした。見間違いかと思ったが、そうでないことにすぐ気がついた。なぜならいつの間にか背後の木が彼の服を剥ぎ取ろうとシャツを引っ張っていたからだ。
「あ、いやぁぁぁ!!!」
少年はひどく怯えて立ち上がり、全力疾走で森の中を出口もわからず駆け抜けた。とにかくどこでもいいからこの森から抜け出したいと強く思い半泣きで走る。後ろから草木の擦れる音が森全体に反響しているのが聞こえてくる。さらに加速した少年はいつの間にか森を抜け出していた。
命からがら逃げ延びた彼は息つかぬまま勢いよく後ろを振り返り、無事に逃げ切ることができたかどうか確認した。森はまるで元々そうだったとでもいうかのように静まり返っていた。
「な...んだよ...」
彼は疲れ果てて原っぱにへたり込むと、汗を滴らせながら息を整えた。
すると遠くの方から黒い毛玉がコロコロと転がってくるのが見えた。キャンキャンと元気に吠えながら走ってくるのは、あの雨の中で震えていた小型犬だった。
「...犬。」
少年は自分の胸の中に飛び込んでくるその毛玉を受け止めた。それは少年の中でくるりと丸くなり、愛らしい声で鳴く。犬は風に吹き上げられたからか、完全に乾いていてお日様の匂いがした。
「...名前、つけよう。」
少年は近くを見渡して目ぼしいものを探した。すると菜の花らしき見た目の黄色い花が一際目立っているような気がした。
「...ナナって名前、いい?」
そう聞かれた毛玉はワン、と鳴くだけだった。
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少年はここがどこなのか手掛かりを探すため、目的地を決めずになんとなく歩いていた。
「一体ここは...ん?」
すると視線の先に沼地があるのが目に入った。丈の高い草が生い茂っている。
少年は吸い寄せられるようにその沼地へと近づいていった。
「なんか、ちょっと似てる、|家《うち》と...」
ジメジメと湿った空気、足場に生えたフカフカの苔、陰鬱なこの場所が彼の記憶を引き摺り出す。
少年は沼地の淵に立ち、沼の奥にある森を見つめる。すると、そこで何かが動いているのが見えた。
赤茶色の豊かな毛が風に波打ち、そのものの足が一歩一歩踏み出すたびに空気が揺れ、鋭い眼光がナイフの反射光のようにギラリと光っている。その姿は百獣の王ライオンそのものだった。
少年は顔を真っ青にして目を見開いた。腰が抜けて動けない様子だ。犬も耳を垂らして力無く鳴いている。
今度こそ本当に死ぬ、そう少年が思ったその時だった。
「おい、お前たち、我が国になんのようだ。」
ライオンは襲いかかってはこず、人の言葉を話し、堂々とした出立で小さな少年と犬の前に立っているのだった。
「...あ、え。...く、食わないの...?」
少年は怯えながらライオンの顔色を窺いそう尋ねる。ライオンは堂々としたままフンと鼻を鳴らした。
「俺は人は食わん。もちろんその黒いのもだ。それよりもお前は何をしにここへ来た。ここの世界のものではなさそうだが...」
ライオンはふと視線を下ろすと、ナナの方を見てあ、と小さく声を上げた。
「お前!トトじゃないか!久しぶりだなぁ!」
さっきまでの威厳は何処へやら、ナナの方を見てトトと呼び、元気に小犬と|戯《じゃ》れ始めた。ナナも満更ではなさそうにキャンキャン吠えて遊んでいる。
「...は?」
少年はポカンとして|側《はた》から二匹を眺めた。百獣の王が巨大な猫みたいになってしまった。
「まさか再会できるとはなぁ!ところで、あんたは何者なんだ?」
ライオンはナナと戯れ合いながら、顔だけ少年の方に向けて尋ねた。
「僕は...ユト。」
名前を聞いたライオンは「聞いたことない響きだな。」と言って立ち上がった。
「あんたもなんか願いでもあるのか?ドロシーがそうだったみたいに。」
少年、ユトは困惑して首を傾げた。
「願い?なんで願い...てか、ドロシーって、誰?」
ライオンは笑って前足を叩き始めた。
「そうか!知らないのか!そうかそうか...」
そして急にユトとナナを背中に乗せて駆け出した。
「ちょ!どこいくの!?」
ユトは振り落とされないようにライオンにしがみつくと、風に頬をぶたれてぶるぶると唇を振るわせながら叫んだ。
「あんたを会わせたいヤツがいるんだよ。どうせ何もやることないんだろ?面白いぜ!」
ライオンは猛々しく吠えながら、弾丸のように凄まじい速さで走っていった。
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辿り着いたところは、いかにも魔女が住んでいそうな不気味な城の前だった。
すると何やら人影が太い幹に斧を食い込ませているところが見えた。斧は柄の部分が純金でできており、刃の部分はギラギラと光を放つほど磨かれていた。非常に切れ味が良さそうだった。
「おい、一昨日ぶりだな、木こり。」
ライオンが前足を片方あげて挨拶すると、その人影はゆっくりとこちらに振り向いた。
それの姿をはっきりと目にしたユトは、ギョッとして後ずさった。
ブリキでできた体に、ギシギシと耳障りな音を出す関節、そして母の面影を感じる生気のない黒い瞳。
ユトはガラクタが動いていることに恐怖を覚え、情けない悲鳴をあげながらその場から逃げ出そうとした。しかしライオンの爪に服を引っ張られ、虚しくへたり込んだ。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか。私はこの西の国を治めるものです。決して悪い奴ではありません。」
そういう木こりの瞳に、相変わらず正気はなかった。
「あー、もしかしてライトアップの問題か?」
ライオンは木こりの足元のカゴの中からランプを取り出し、器用に前足を使って火をつけた。
ランプの光は木こりの顔を下から照らし出し、ますます恐ろしさを増す羽目になった。
「ヒィッ...!」
ユトは失神寸前になりながらもなんとか持ち堪えた。ナナは近くを舞っていた蝶に夢中だった。
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「ほう、そうですか。ドロシーのように別の世界からやってきたんですね。もしかしてカンザスですか?」
木こりは真摯にユトの話を聞いてくれ、うんうんと頷きながら耳を傾けた。
「えっと、僕は日本から来た。」
「日本?聞いたことない地名ですね。しかし、もしかしたらカンザスの近くかもしれません。」
木こりは俯いてうーんと考え込み、閃いたように顔を上げた。
「そうだ!エメラルドの都に行きましょう!あそこにはもうオズはいませんが、その代わり非常に頭の切れるカカシがいるのです。」
「カカシ...?」
木こりの突拍子もない提案と「カカシ」という言葉に困惑しながら、ユトは目をぱちくりさせる。
「まぁ、見ればわかるだろうよ。」
ライオンは待ちきれないとでもいうふうに前足を屈伸させた。走る気満々らしい。
「ところで、あなたの願いはなんですか?私の願いは心が欲しい、というものでした。」
「俺は勇気が欲しいと願った!」
木こりとライオンは、遠い昔を思い出すように懐かしい目をした。
「あなたの願いは家に帰りたい、とかですか?」
ユトはしばらくの間黙り込んだが、口を開いてこう言った。
「帰りたくなんか...ないよ。」
「それはまたどうして?」
木こりが追求してくる。ユトは再び黙り込んだ。何も言えなかった。
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ユトとナナと木こりを乗せたライオンは、緑の草原を駆け抜けて行った。先ほどよりはペースも落ちているが、競走馬のような速さで走っていく。
やがて黄色い煉瓦の敷かれた道に出た。
「この黄色い煉瓦の道を辿っていけばエメラルドの都に着くんですよ。」
木こりが説明してくれるが、ユトはすでに酔っていて話を聞く耳は持ち合わせていなかった。
ライオンが止まると、目の前には大きな緑色の門があった。異様な存在感を放っている。
「ここがエメラルドの都の入り口ゲートだ。」
ライオンが入り口のベルを押す。チリンと軽い鈴の音が聞こえ、その後ゆっくりと門が開いた。
中に入ると、門番が緑色のメガネをそれぞれに合わせて選び、装着してくれた。
「それでは、良い旅を。」
門番が二人と二匹を送り出した先を見てみると、緑色の世界がそこには広がっていた。
「え!全部緑なの?」
ユトは初めて見るその景色に圧倒される。
ライオンと木こりは苦笑いしながら顔を見合わせた。
「まぁ、そういうことにしておきましょうか。」
「そうだな。」
ナナははじめのうちは自分専用のメガネに喜んでいたが、邪魔だったので外そうともがいていた。
エメラルドの都の宮殿に通されると、玉座の間に早速案内された。
「久しぶり、お二人さん!」
歓迎したのは頭から針をぴょんぴょんと突き出したカカシだった。
「この人がこの国の王なの?」
ユトが訝しげにカカシを見つめると、それは陽気に笑ってそれを肯定した。
「いかにも、ボクがこの都を治めるものだよ。さぁ、ぜひご馳走を食べたり綺麗な衣装を着たりしてくつろいでくれ!」
カカシは玉座の間を出て宮殿の中を案内すると、大きなダイニングテーブルに並べられた豪華な食事を指し示して二人と二匹をもてなした。
「まじ!?いいの?こんなご馳走...」
ユトはこれには何か裏があるのではないかと怪しんだが、空腹には耐えられず一気に並べられた骨付き肉にかぶりついた。
「いい食べっぷりじゃねぇか!」
ライオンも負けじと喰らいつく。
「カカシと私はモノを食べられませんが、お二人の食べっぷりを見ているとなぜかお腹いっぱいになってきますね。」
「ボクもそう思うよ。」
木こりとカカシはその様子を楽しそうに眺め、みるみる減っていく食べ物を見て顔を見合わせた。
「それにしても早いですね。何日食べていないんでしょうか?」
その言葉を聞いて、ユトは自分がどれほど空腹だったのかを思い知らされた。そういえばしばらくの間満足に食べていなかった気がする。思い出すのは塩で味付けしたもやしのスープ、もやしのステーキ、もやしのケーキ...
「ところで、君は家に帰りたいのかい?」
カカシは針の飛び出した頭を回転させて考え込む。
「だったら砂漠を越えなければならないね。でも銀の靴はドロシーが帰る時に持っていってしまったからなぁ...あれがないと帰れないからね、困った困った。」
「いや、僕は帰りたいなんて一言も言ってない。」
ユトは何度も聞かれる似たような質問に鬱陶しさを感じながらも、感情を抑えてそう言い放った。
「じゃああんたの願いはなんなんだ?」
「あなたの願いはなんですか?」
「君の願いは?」
三人から一斉に同じ質問を投げかけられたユトは、自分でもどうしていいか分からず癇癪を起こした。
「だから、ないってば!」
そして一人で宮殿を飛び出し、メガネを投げ捨て、門をこじ開け都から出て行ってしまった。
後ろも振り返らずしばらく走っていると、先ほど食べたご馳走が食道をせり上がってくる感覚を覚えた。口元を押さえて倒れ込む。倒れた拍子に花弁がふわりと舞い上がった。
甘い香りが鼻をつく。昔つけていた母親の香水の香りに似ていた。
「帰りたく、なんか...」
花々の間から見える青空がビビッドなピンクや紫に変化していき、視界はぐらつき、やがて焦点も合わなくなってきた。いつの間にかユトは眠り込んでしまった。
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「お母さん、お父さん!」
「なんだ?本を読んで欲しいのか?」
「うん!これ読んで!」
「『オズの魔法使い』か。どこで借りてきたんだ?」
「あそこの図書館!」
「...そうか。よし、母さんと父さんで劇でもやってやるか。」
「えー!私も!?」
「やったー!僕もやる!じゃあさ、僕はドロシー役ね!お母さんはカカシでお父さんはライオンと木こりと...」
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「...っ!」
ユトが次に目覚めたのは、甘い香りの花畑から少し離れた野原だった。
目の前でナナが心配そうにユトの顔を舐めている。
「...ナナ、ありがとう。」
ナナはユトを幻惑の花畑から助け出してくれたのだった。
ユトは起き上がり、ナナのごわついた黒い毛を優しく撫でる。
「嫌な夢...見たな。」
ユトは頭を押さえながら立ち上がると、どこへともなく歩き出した。しかし彼の中で目的地は決まっているようだった。
立ち止まった先には、無限に続いているかのような砂の海が広がっていた。至る所で|旋風《つむじかぜ》が吹き荒れ、煙たい砂埃が舞っている。この先へ進めばもう二度とここへは戻ってこられない。家に帰れるかどうかも分からない。そんな危険な選択だとわかっていても、ユトはもう引き下がれないという圧力を感じていた。
ナナは二、三度クゥンと力無く鳴いていたが、砂漠の中を進んでいくユトにくっつくようにしてついて行った。
ユトとナナは砂漠の中で|二進《にっち》も|三進《さっち》もわからず彷徨っていた。長い間歩いていたので、乾いた風は徐々に二人の水分を奪っていき、乾いた心身は水を強く欲していた。ついに限界を迎えたナナは、砂の上に伏せて動こうとしなくなってしまった。
「...ナナ、歩き続けないと、死んでしまうよ...」
ユトは自分の中の水分も枯れかけているので、悲しくて辛くても涙を流すこともできないまま、ナナを持ち上げようと必死に引っ張る。しかし疲労困憊の体ではなかなか思うようには行かなかった。
ユトはナナの横に膝をつくと、力を出し切って倒れてしまった。
瞳から正気が奪われ、母親と同じように|虚《うつろ》になっていく。
「...僕の願い、は...」
その時ふとよぎる母親の泣き顔。不思議なことではあるが、今、母親が泣いていることをユトは感じ取った。
意識を奪われかけた時、ふと砂漠の中で光を放つ何かが見えた気がした。ユトは『オズの魔法使い』の話を思い出す。主人公は最後、銀の靴を使って家に帰ったのだった。
ユトは砂の上を這いずりながら、その靴めがけて進んで行った。最後の頼みだった。
靴は砂に埋もれていたようだが、ユトが上から流れ続ける砂をかき分けかき分け、なんとか掘り出したそれはあの銀の靴であった。ギラギラと光るその靴は、ユトに履きなさいと言っているかのようで、ユトは寝転んだまま体を折り曲げてその靴を履くと、ナナに向かって手を伸ばし強く抱きしめた。
「...帰りたい、お母さんの...ところへ。」
ユトはそう唱え目を瞑った。次に目を開いたところは、シトシトと小雨の降るあのしょぼくれた家の庭だった。
天を見上げ、乾いた心身に降り注ぐ雨を全身に受ける。草の青い匂いと雨の冷たさが沁み入る。ナナも同じように空を見上げて、舌を出して雨を啜っていた。
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家に入ると母が泣き腫らした目を見開いて、少年をじっと見つめた。少年は不安な気持ちになったが、それとは裏腹に母親は彼に駆け寄り強く抱擁した。
「...どこに行っていたの?お母さんが悪かったから、もうどこにも行かないで。いいお母さんになるから...」
少年は久々の母の抱擁に安堵するのと同時に、罪悪感を感じていた。母をこんな目に合わせたのは自分なのだと。
「ごめん、なさい...もう大丈夫だから...」
少年がか細い声でそういうと、黒い犬は勝手に家に上がり込み、母の足に擦り寄った。
母は一瞬驚いた顔をして言葉を失ったが、再び涙を溢れさせて犬のことも抱きしめた。
「おかえり...二人とも。」
降り注いでいた雨は陰鬱な部屋の中に、ほんの少しだけ光を差してくれた。