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防衛戦の彼方
戦闘シーンの練習
もはやこの静寂に包まれた世界には、湿った地面を覆う雪と1人の少女———そして、彼女を取り囲む無数の兵士しか、いない。
何故、何故何故何故…嘆いていても仕方がない。
少女の思考がその答えに達するよりも、兵士の振り上げる剣が巻き込んだ風が頬に届く方が、早かった。
「———っっ!!」
咄嗟に、少女は体を大きく右へ揺らした。その行動は死へ傾きかけた少女の命を生へと引き戻す。焦り、緊張、不安…様々な感情が押し寄せながらも、少女は立ち上がった。
…まもなく、慟哭にも似たような感情と共に吐息と声が漏れる。
それでも、涙を溢すわけにはいかない。膝を地面に打ち、下を向いてはいけない。
彼女———シャーロット・ハミエルは、戦わなければならないのだ。
最も、少女が酷く醜悪なこの国の『防衛線』の末端であることは、屈辱以外の何者でもないのかも、しれないが。
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雪に黒いブーツ、とは何とも風情のない色合わせだ。冷たい空気が喉に焼き付けるように、肺に届く。最早熱ささえ感じる。大きく吐いた息は白い霧へと姿を変えてゆく…その荒い呼吸が、シャーロットの生命を輝かせる証であった。
この間、おそらく1秒にも満たないのだろう。目視だけで、少なくとも14人…だろうか。しかしこの状況の中、敵が1人だろうが14人だろうが、関係ないのだ。
シャーロットに向けられる感情はひとまとめに「殺意」だけなのだから。
右寄りの正面。剣を手に飛びかかってくる兵士の横腹を、少女は黒くも硬いブーツの踵で蹴り上げる。ゴムのように中に浮いた体を仲間が目で追うより、シャーロットが跳躍し兵士の首が飛ぶ方が少しだけ早かった。
純白にびたびたと鮮血が舞う。モノクロの世界とは打って変わって、命と命がぶつかり合う大惨事だ。装甲…と言えるのか怪しいが、着地した少女はロリィタを模ったような漆黒のスカートをふわりと摘んで息を整えた。
「はぁっ…はっ…は…は…ぁ、はぁ…」
ただ目を向けるだけでは分からない、黒い衣装には間違いなく、シャーロットがこれまで奪った命の証が赤黒くこびりついていた。3秒ほど全力で走れば鼻が当たってしまいそうな距離で、敵が今か今かと心臓を狙っている。
———刹那。
シャーロットの右腕に握りしめられた刀が、これでもかと走り込む兵士の脚を奪う。しかし敵も1匹ずつ挑んで散るほど馬鹿ではない———真上から振り下ろされる鍛え抜かれた兵士の体躯は、痩せ細ったシャーロットに重くのしかかり少女は地面に叩きつけられた。
直後、右腕に火傷のような激痛が走る。…肘から先を動かす関節の中心に、敵の剣が深く刺さっていた。
「う」
———右腕、だ。残り13人の敵を仕留めることも、決して絶望的では無かったシャーロット優勢の戦況が、大きく覆る。
痛みを味わっている場合ではない。今、雪に半身が埋もれた状態のまま動かなければ、少女は敵に取り囲まれ死を迎える運命となる。
震える、足を上げた。右腕をやられた。だから何だと言うのだろう。まだ左腕と、両脚と、柔らかく動く胴体と、研ぎ澄まされた双眸が残っている。
それだけで、十分なのだ。
「———っぅあぁっ!!」
真上に、大きく脚を振り上げた。そのつま先に少しでも感触があれば、おそらく敵の誰かがダメージを受けている。武器を左手で持ち直し、迫る兵士に向け弧を描くように凶器を振り回す。
3人、少なくとも3人だ。恐ろしささえ感じる切れ味に、3人の兵士が犠牲になった。その儚き散り様を見て怖気付いたのか、兵士の数人が後退りした。
少女は真っ二つの胴体を蹴り上げ、転がした。残り10人、やれるだろうか。
「…癪、だけど。」
声を、上げる気力が湧いてくる。それが戦場の空気を変えたのか、何処からか言葉が返ってきた。
「…降伏しろ。『防衛線』…が1人、シャーロット・ハミエル。貴様のことは既に帝国側で調べ尽くされている。逃げ場など、ない」
「…逃がそうと、してくれるんですね。でも、私は逃しませんよ。なんせ、弱いので。今も逃げ出したくて逃げ出したくてたまりませんが、逃げちゃったら怒られちゃうんですもん」
煽ることのできるほどには闘気も意識も回復してきたのが、全身から滾る血で分かる。
勿論、剥き出しの少女の意思を受けた敵ももはや、同情の余地さえ与えてくれない。今戦うことを辞めれば、敵は背の要塞を突破し、いずれこの醜悪国家を制服せんとする。
「…あなた方に負けるくらいなら、手こずってお咎めを受ける方がずっとマシなんですよ」
瞬間、少女の姿はもうその場に無かった。残像と残像が混ざり合い、溶け合い、命が体から引き剥がされ雪に落ちる。1人、2人、3人と仕留めていくうちに、比例するように傷が、打撲が、シャーロットの体に代償として刻まれていく。
背後から向かう影を、右脚に感情を集中させて要塞の壁に蹴り付ける。刃の反対側から襲いかかる図体に向けて、くるりと柄を持ち替えてひとつき。
血で血を洗うとは、正にこのことだ。
最後の1人。敵小隊の大将。その亡骸…と言うにはまだ早いだろうか。そう見えるのも仕方がない、大将の受けた攻撃は見るも無惨なものだった。臓物という臓物が、筋肉という筋肉が、辺りに飛び散る程には人としての原型を保っていなかった。
が、しかし。彼のほんの少しの渇望が、鼻周りに溢れる白い霧が生を物語っていた。
その心臓を、掴む。ドクドクと、必死に生に追い縋るその命を、ぎりぎりと掴む。味わったことのない激痛と、熱さとが混ざり合い、もはや何も感じない。程なくして、その心臓は抵抗を辞めた。
「…性的嗜好、とかじゃないですよ。命令、なんです」
血管に繋がれた心臓をぶちぶちと引き離し、左手に相棒、制御の効かない右手に戦利品をグッと握りしめる。
もはやこの静寂に包まれた世界には、湿った地面を覆う雪と1人の少女———ああ、少女。ただ1人しかいない。
またやっちゃった。それが感想だった。いつも少女の諦めは、早いのだ。全身にべったりと張り付いた血を乱雑に拭い、要塞のただ1つの入り口に向かって重い脚を規則的に動かす。
帰ったら、一体どれだけの報復がシャーロットを待っているのだろうか。考える余裕もなく、いつまでも整わない荒い息だけは落ち着いて化学反応を起こしていた。
———もはや、意思などない。
———もはや、抵抗などない。
狂気という名の宿命が、シャーロットの足取りに重く重くのしかかっている。