公開中
〖第三話〗 硝子の奥の言葉たち
雨が振り出したのは、倉敷が帰った直後だった。細い雨脚が窓ガラスを撫でるように滑り落ち、その音が、部屋の静けさを一層深めていた。
望月紗季は机の上の詩集を閉じ、その表紙を指先でなぞった。布張りの質感が指に吸い付く。芹沢律が生前、唯一自費出版という形で世に出したこの一冊――『水曜日の亡霊たち』。
彼がこの詩集にどんな"意味"を託していたのか、それを彼女はずっと解き明かせずにいた。
「鍵を二重にかけた……あのとき、彼は確かに"誰かを恐れていた"」
自分自身の言葉が、部屋の空気に溶けて消えていく。あの夜、彼は妙に落ち着かない様子で何度も窓の外を確認していた。口数も少なく、煙草に火をつけては、すぐに消していた。
――お前だけには、話しておきたいことがある。
あのとき、彼はそう言った。けれど、結局"話すべき何か"を語る前に、話題は試作のことへとすり替わり、真相は夜の闇へと飲み込まれてしまった。
そのまま、彼は三日後に死んだ。
突然、部屋の片隅にある本棚に目が止まった。彼の詩集の隣に、もう一冊だけ、彼女が長年手に取ることのなかった古いノートがあった。大学時代、文芸サークルでの活動をまとめた共同作品集――『夜の階段』。
彼女はそっとそれを引き抜いた。埃を払うと、革の表紙に彼女自身の筆跡でタイトルが書かれている。
ページを開くと、懐かしい名前が並んでいた。
・芹沢律
・望月紗季
・|赤羽《あかばね》|理子《りこ》
・|片瀬《かたせ》|航《わたる》
・|宇田川《うたがわ》|柊司《しゅうじ》
――懐かしい、と言うには、どこか胸の奥がざわつく。
彼らはかつて、文学を語り合った仲間だった。だが、卒業後はそれぞれの人生に流され、自然と疎遠になっていった。特に赤羽理子と宇田川柊司とは、"ある夜"を境に、連絡を絶ったままだ。
ページをめくっていくと、芹沢律の詩が掲載された箇所が現れた。そこには、彼が二十二歳のときに書いた詩――"階段の声"が記されていた。
"夜の階段には 言葉が落ちている
拾い上げれば 指に血が滲む
その血はきっと 僕のものじゃない
だから僕は 黙って階段を降りる
声がした気がした――
だれかが だれかが 突き落とす音"
……こんな詩だっただろうか?記憶と微妙に違っている気がする。紗季は首を傾げ、次のページを捲ろうとして、ある"書き込み"に気がついた。
ページの右下、余白に鉛筆で細い文字が書き加えられていた。
**「六月二十四日 あのときの"こと"は、誰も知らない。君も含めて。」**
日付に、紗季の心臓が跳ねた。それは律が亡くなる前日――死の直前に書かれた可能性がある。だが、これは"誰に向けた言葉"だったのか?
"君も含めて"――この言い回しに、確かに誰かに対する意識がある。だが、その"誰か"とは誰か。彼女か、それとも――あの頃の仲間の誰かか。
そしてふと、あのとき彼が見せた、机の引き出しが頭をよぎる。
彼が二重に鍵をかけて隠したのは、この詩集でも、このノートでもなかった。
ならば、"別の詩"があったのではないか?
どこにも発表されず、誰にも見せず、彼だけが知っていた最後の詩――。
---
一方そのころ、倉敷隼人は警視庁地下資料室にいた。夜十時を回り、階上の明かりはほとんど消えている。だが、彼はひとつの記録に目を通していた。
**芹沢律 死亡時調書(再閲覧用)**
**司法解剖所見補足資料**
そこには、一枚の写真が添えられていた。
彼の死亡現場、つまりあの古アパートの一室の窓際。倒れた椅子、散乱した紙束――そして、窓の下に落ちた黒いノートの破片。
――だが、このノートは"現場から押収されていない"。当時、死因は即座に自殺と断定され、細部の調査は省略された。
倉敷はその一枚の写真に目を凝らした。ノートの一部、そこに見える書き文字――薄くかすれたインクの跡。
"君を許さない"
――誰が、誰を許さないというのか?
倉敷の中で、何かがはっきりと"動いた"。