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「——ねぇ、あの日、私に傘を差し出したのって……あなた、だったよね?」
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梅雨の終わりが近づいていた。
灰色の空に、雲が重たく垂れ込めていて、どこまでも湿っぽい。
向日葵 柚子月(ひまわり ゆずき)は、駅のホームの端っこに立って、何本目かの電車をやり過ごしていた。
自分でも、何をしているのか分かっていた。いや、分かっているのに「しない」のだ。
——電車に乗るふりをして、彼に会う時間を稼いでいる。
彼とは話したことがない。ただ、毎日、同じ時間に同じホームに現れる大学生らしき人。
黒髪を短く整えたその人は、いつも白シャツで、文庫本を手にしていた。ページをめくる指が静かで、整っていて、何より「余計な音を立てない」人だった。
(あの人、本当に……静かだよね)
それが、初めて目にしたときの印象。
でもそれ以上に、柚子月には忘れられない出来事があった。
——3週間前。
突然の豪雨。傘を忘れた柚子月は、バス停の屋根の下で立ち尽くしていた。
通り過ぎていく人々の中で、ひとりだけ立ち止まった人がいた。
それが、彼だった。
「使ってください。」
そう言って、一本のビニール傘を差し出してくれた。
彼自身は、肩まで濡れていたのに、柚子月にだけ傘を残して去っていった。
名前も、学校も、何も知らない。
けれど、柚子月の中で、あの一瞬が焼きついて離れなかった。
(……今日こそ、話しかけられるかな)
電車が到着する音が遠くで聞こえる。
そして、彼がいた。
白シャツの肩にうっすら水滴を浮かべ、ホームの端で文庫本を開いている。
柚子月は、小さく深呼吸した。傘を握りしめる。あの日返せなかった、あの傘。今日、ようやく返せる——そう思っていた。
でも、足が動かない。
(やっぱり、無理だ……)
彼がページをめくるその手に見とれて、視線が交差した——その一瞬。
「……あ。」
彼が、目を細めて笑った。
それは、微笑みでもなければ、社交的な挨拶でもなかった。
まるで、「久しぶり」とでも言うような、やさしい記憶のような笑顔だった。
柚子月の胸が、一気に熱くなる。
(あの人、覚えてる……?)
その瞬間、電車が滑り込む音が大きくなり、乗り込む人々に押されて、彼の姿が見えなくなった。
けれど、柚子月の手の中には、あの日もらったビニール傘が握られている。
「——次は、ちゃんと話そう。」
その決意だけを胸に、彼の背中を目で追った。
紫陽花の咲くころ。
少しずつ晴れていく空の下で、恋がゆっくりと、始まりかけていた。
向日葵柚子月さんすいません!主人公の名前にしちゃいました!
だいぶ前に送ってくださったリクエストを使い回してるんですけど、
送り主が向日葵柚子月さんだったので、!
嫌だったら言って下さい!1話で止まっとくんで!