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傷と花束 (前編)
私はいつも一番の成績を取らなければいけなかった。ナンバーワン、それを維持することが私の平穏な生活への唯一の足掛かりだった。逆に言えば、その足場がぐらついた瞬間に私のまだ狭い世界はあっという間に壊されてしまう。
一年生の頃は、完全に私が先頭を独走していたと断言できる。そりゃあそうだ。受験が終わってみんなが青春に勤しんでいる間、こっちは寝る間も惜しんで勉強していたのだから。
しかし、二年生になってライバルが現れた。県内屈指の進学校から、家庭の都合で転校を余儀なくされたとのことで、《《彼女》》はやってきた。颯爽と現れた彼女は、間違いない、天才だった。
二年生になってから初めての定期試験。順位表の頂上を明け渡すことのなかった私の名前は、彼女の名前に圧倒されて、こぢんまりと二番目に収まっていた。
最悪だ。どうして、勝てなかったんだろう。
捧げられるものはいつだって全部捧げてきた。自分の大切なものを犠牲にして、結局私は何を得たのだろう?
自問自答しながら家路を辿る足はいつにも増して重かった。両親はきっと、私が一番を取ったと報告するのを期待しているのだろう。いや、期待ではないか。
あんなにじゅくじゅくして、痛いものを、到底期待とは呼びたくない。
玄関を開け、リビングに待ち構えている両親に、ただ事実のみを述べた。それだけで彼らを激昂させるのには十分だった。久しぶりに殴られた頰がじんじんと痛む。勉強時間を増やす事を命じて彼らは部屋から立ち去る。一回で済ませてくれたのは彼らなりの良心なのかもしれない。
二階の自分の部屋へと、重い足を引き摺るようにして向かう。すると、母が私の部屋から出てきた。すれ違いざまに睨みつけられ、私はまたすくみ上がる。案の定、部屋の中は荒れ放題で、これでは一体、勉強してほしいのか、それとも邪魔をしたいのか分からない。
「あ」
三歳の頃に貰ったぬいぐるみ。ベットの上に置いていた彼は破かれていた。
ごめんね。享年十三歳の、私の最後のぬいぐるみに心の中で手を合わせた。
小さい頃は、ぬいぐるみが大好きで、毎回誕生日とクリスマスにねだっていた。ある時から一切それらはもらえなくなったばかりか、事あるごとに順々に破壊されていくのだけれど。
「ごめんね」
まだ鈍く痛む頬を彼の残骸に擦り寄せた。綿が少し涙で湿った。
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翌日、私はマスクを着けて学校に行った。今までのやり方では彼女に勝てないと今回分かったのだ。ならば、まずは敵を知ることから始めなければいけない。
しまったな、どうするのか考えていなかった。昼休みになって、私は心の中で舌打ちをする。
私は基本友人も作らず過ごしてきたため、当然お昼を一緒に食べる相手もいない。一方彼女はというと、転校してきたにもかかわらず、持ち前の朗らかな性格と、その恵まれた容姿とで、早くもクラスの輪に溶け込んでいた。私なんかよりもよっぽど前からこのクラスにいたのか、と思ってしまう程だ。きっと私が一生かけても親密になることはないと思われる一軍に、どうやったらあんなにすんなり入り込めてしまうのだろう。
待ち伏せしているようで気は進まなかったが、仕方がないので彼女が一人になった隙に声をかけようと今日一日彼女を観察してみた。するとどうやら、放課後彼女は図書館で自習するということが判明したので、自習席に座りテキストを広げる彼女の後ろに立った。少し首を傾げていることで彼女の長いサラサラの髪の毛がテキストの端の方で接地し、そのまま机に流れている。どうやって成績と美容を両立させているのだろう。私は残念なことにお世辞にも可愛い方とは言えなかった。
「あの、」
ゆっくりと彼女は顔をこちらに向けた。
「櫻井さん」
ようやく彼女の名前を呼ぶ。そういえば、クラスメイトと話すのは久しぶりな気がする。
「あれ、田中さんだ。」
思わず私は目を瞬かせた。何だか、彼女の整った唇から、まったく平凡な私の名前が紡がれるのは、ひどく不自然な気がした。
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「勉強方法かぁ……」
私と櫻井さんは場所を変え、改めて放課後の教室で向かい合って座っていた。何だか勉強の話をするだけでこんなに改まる必要はないかもしれないという気がしてきたけれど、普通こんな時どういうふうにすれば良いのかわからなかったのでなるべく丁寧にする。何せ櫻井さんは一軍だから。
「今みたいに自習はして、塾にも行ってるけど、基本そんな大したことはしてなくて。本当好きなように勉強してるから、あんまり参考になるようなものはないかな」
「大したことはしてないっていっても、一位でしょ。好きなように勉強って、どんな感じ?」
思わず棘が出そうだった。できる人の謙遜なんて、ただの下の者への辱めでしかない。それに、直接的ではないにせよ櫻井さんのせいで、私が痛い目に遭っているのだから。
「えっとね……」
そうして櫻井さんは、言葉を選びながら慎重に、そしてなるべく丁寧に私に自分の勉強方法を教えてくれた。こんな三軍、軽くあしらったっていいものを、やたらと馬鹿正直に、その上丁寧に扱うなんて。
彼女は誰と話す時でもこんなふうにしているのだと知った。とても眩しい人だと思った。
「今回田中さんと僅差だったし、次回も負けないように頑張らなくっちゃ。」
最後に彼女はそう言った。勉強に関してしつこく聞いてきた私に対する社交辞令としてこの言葉を選んだかも知れないし、あるいは本心から私を良いライバルだと思っての言葉かも知れない。
まるで心底楽しそうに言うじゃないか。会話の所々に挟まる眩しい笑顔で言ってくれるな。
あんたの努力で、私は殺される。あんたは私を殺す努力をしたいのか。
一気に頭に血が昇って、なにか衝動に任せて言ってしまいそうだったけれど、怒りを押さえつける程の虚しさが波のように押し寄せてきたため私は曖昧に笑ってなるべくその場からすぐ離れた。
私の事情なんかをつらつら話して文句を垂れたところでなんの解決にも繋がらないのだから。彼女に何ができるというのだろう。それに、彼女はこんなものとは縁のない世界で生きてきたのだろうから、きっと何の理解を示さないに違いない。
親は保護者だろう。そして家は、きちんと家としての機能を果たしているのだろう。
どうせ。どうせ。
温室育ちで、汚いものを知らない所こそ、あんたの汚い所なんだと心の中で嘲った。とにかく彼女を落として、踏みつけて、侮辱しなければ気が狂いそうだった。実際には始終私は彼女に曖昧な笑顔をむけて媚びていたけれど、そんなことは関係なかった。私の頭の中ではどう彼女を打ち砕いてやるか、そればかりで溢れていた。
もしかしたら中編を挟んでの後編に続く予定です。