公開中
秘密
本格的に夏が始まった、青空が目に痛い昼休み。
校舎の裏手の小道を歩いていると向こうからゆっくり歩いてくる人影に気づいた。
…瀬野先生だ。
その姿を見た瞬間、自然と心が波打った。
先生はいつもと変わらぬ無表情で、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、
小さな空の下を静かに歩いていた。
何かに惹かれるように小走りで先生の元へ走る。
「…先生、こんなところで何してるんですか?」
ふいに声をかけられた先生は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに表情を緩めた。
「黒崎さんこそ、昼休みにこんなとこで何してるの?」
「…なんとなく。風、気持ちよかったから。」
ほんとは違う。
ほんとは、ここから見える瀬野先生の姿を目で追っていた。
だけど、それを言葉にするにはまだ勇気と想いが足りなかった。
「じゃあ、俺もなんとなくかな」
そう言って先生は優しく笑った。その笑みが、少しだけ甘くて胸が締めつけられる。
「…そうなんだ」
「先生ってたまに抜け出すよね」
「誰だって、逃げたくなる時くらいあるよ」
「先生も?」
「俺だって、別に特別な人間じゃない。ただの、何もない普通の人間だよ」
その言葉を聞いた瞬間、何かが静かにひっかかった。気がした。
何もない人なんか、いるはずがない。
だって、先生はとても静かにで冷静に、生徒を見ている。
誰かの話を遮らずに聞く。
必要な時には、言葉ではなく、無言でそっと手を差し出す。
それを“何もない”と言うのならそれはきっと、先生がいちばん見せたくない部分を誰にも見せず隠しているということだろう。
私は思わず聞きそうになった。
先生、本当は何を隠してるんですか
けれどその言葉は、結局声にはならなかった。
「先生の“普通”って、たぶん、ちょっと特別です」
時が止まったように私をぼーっと見つめてくる。
きっと私をすり抜けて数m、いや、ここではない遙か先を見ているような。
それから、少しだけ俯いて誰にも聞こえないような声でつぶやいた。
「そう言われると…少し困っちゃうな」
その声が、どこか寂しげで、どこか温かかった。
吹き抜ける風が、ふたりの髪を揺らした。
ふわっと先生の甘い茉莉花の香水が届いてくる。
じゃ、と先生が去っていくと言葉にならない何かが、そこに残っていた。