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90点の檻
平手打ち的なシーンあるけどそれを推奨してるわけじゃないし、あんたのことなんて好きじゃないんだから!!!勘違いしないでよね!!!!!
↑ツンデレセリフに繋がるんだなこれが。
2025/09/07
「由美ちゃん。」学校から帰ってきて手を洗っていると、お母さんが笑顔で私の名前を呼んだ。
「どうしたの?お母さん。」
「今日、テスト返ってきたはずよね?」
言われてどきっとする。「う、うん。」テストの結果の話は正直あまり楽しいものではない。特に今回の中間テストは、80点台が2教科もあった。まだ返ってきていない教科もあるので、もしかしたらもっとあるのかもしれない。お母さんが示す合格ラインは90点。90点台の教科だって、91点とか93点とかでギリギリだ。
「何点だったの?」私の予想通りの言葉がお母さんの口から放たれる。私は思わず視線を泳がせた。「国語が、91点。歴史は93点、数学は…87。それだけ。他はまだ返ってきてないよ。」嘘だった。本当は理科が、84点。
「ふぅん。そう。」お母さんの顔から笑顔が消え、無表情になる。心底軽蔑したような瞳が私は怖い。
「…うん。私、部屋に戻るね。」この空気に耐えられなくて、私は部屋に戻ろうと、階段をのぼった。「由美ちゃん。嘘なんか、ついてないわよね。」不意にお母さんの低い声が聞こえてきて、息を呑んだ。心臓がばくんと跳ねた。もしかして、理科のテストが返ってきていることを、お母さんは知っているのか?私は振り返って、笑みを浮かべた。それは多分引き攣った笑み。
「ついてないよ。」
「…そうかしら?ならいいわ。どうせすぐにわかることだしね。」
逃げるように階段を上り切って部屋に入った。80点台があっても叩かれなかった。今日は運が良い。
翌日、私は憂鬱な気持ちで校門をくぐった。今日もテスト返却が行われるだろう。もし80点台…いや70点台の可能性だってあった。特に英語は全く自信がない。その場合、お母さんに失望されてしまう
1限目は英語。予想通りテストが返却された。胃がキリキリと痛むのを感じながら、点数を恐る恐る見る。
73。そう書かれていた。
終わったと思った。こんなんじゃだめだ。お母さん怒るよね。どうしよう。なんでこんな点取っちゃったんだろう。どうしよう。どうしよう。誰かの答案と取り替えてしまいたい。鼻の奥がつーんとした。どうしようどうしようどうしよう。お母さん、お願いだから事故に遭って入院してください。病気でもいい。2週間ほど入院して、テストのことなんて綺麗さっぱり忘れて欲しい。最低なことばかりが頭を巡った。
結局この日返ってきたテストで90点を超えているものは、地理だけだった。97点で学年1位だそうだ。けれどもこんなの当たり前。お母さんにとっては。
放課後、私は家に帰りたくなくて、しばらく教室でぼーっとしていた。
「あれー、戸口。まだいたの。」クラスメイトの足田真奈美が教室のドアを開けて、私を見るなり驚いたように言った。足田は体操服を着ているので、多分、部活が終わって制服に着替えにきたのだろう。
「ちょっとぼーっとしてた。」私の言葉に、足田は首を傾げる。
「いつもすぐ帰るのに。何かあった?」彼女の着替えを見ているのもなんだか気まずくて、窓の外を眺めながら答える。
「テストの点が悪かったから。特に英語。お母さんに怒られるんだよね。」
「ああ、わかる。まああたしはいっつも悪いけど。ちなみに何点だったの?」
少し躊躇いつつ、口を開いた。
「73。」足田はまた、しかしさっきよりも深く首を傾げた。
「全然いいじゃん。平均59だよ。」
「そうだけど…。90は越えなきゃだし。」
「えー。」
足田はそれきり黙った。彼女の方に顔を動かすともう制服に着替え終わっていて、帰り支度をしていた。そしてそれも終わると、私の目を見て言った。
「今日、一緒に帰らない?」
夕焼けは綺麗だと思う。私は好きだ。小石を蹴りながら足田と並んで歩く。足田の家がどこにあるのかは知らないけれど、訊いたら割と近いところにあるらしかった。
「90点以上とらなきゃいけないってまじ?」
なんの前置きもなく、沈黙を破り捨てるように、足田は少し大きな声を出した。
「まあ、うん。お母さんが決めた。」
「89とかだったらどうなるの?」
私は迷った。正直に叩かれることも結構ありますなんて言うのはよくない。なぜならそれは普通ではないからだ。頭の中で言葉を選んで、言う。
「ちょっと怒られるかな。」
足田の横顔をチラリと見る。いつもと変わらない無表情で、感情を読み取りにくい。私の返事が正しかったのか分からずドキドキしてしまう。
「そう。ま、嫌なら嫌って言ってね。あ、テスト破り捨てるとか。」
「何それ…。」わずかに笑う。でもいいかもしれないと思う。
破り捨てると言う言葉は、強かだ。自分の意思を持っているように感じて、私は好き。私だって強かになりたいなとも思う。
「夕焼け、綺麗ー。」足田が空を見上げ、眩しそうに目を細めた。その口元には珍しくしっかりとした笑みが浮かんでいた。「私も、そう思う。」私は細めない。この夕焼けを、少しでも私の体に焼き付けておきたくて。
家のドアを開けた。お母さんの気配はしなくて、なんだか安心した。部屋で73点のテストをどうしようかと悩んだ。お母さんは怖い。叩かれたり怒られたり、失望されたり嫌われたり、そんなのは嫌だ。しかし見せないわけにもいかないのだ。足田はこの73点を褒めてくれたけれど、お母さんにとっては低すぎるのだ。
玄関のドアが開く音がして、急に心臓が早鐘を打ち出した。
「由美、いるのね?」制靴のせいで私が帰ってきていることがバレてしまったのだろうか。誤魔化すことはできない。部屋を出て、お母さんに顔を見せる。
「お、お帰りなさい。」
「ただいま。テストは?」ああやっぱり。「とってくるね。」沈んだ気持ちで部屋に行き、テストを抱えて戻った。お母さんに1枚ずつ渡す。「これ、地理。これは理科。」英語はまだ手に持ったままで、反応を伺う。
お母さんは長いため息をついた。「地理はともかく、理科…ダメダメじゃない。」パンッと言う乾いた音が響いた。一瞬、どこから聞こえてきたものなのか理解ができなかった。それはどうやら、お母さんが私の頬を平手打ちして出たもののようだった。パンッ。また叩かれる。数秒遅れて、じんわりと痛みが広がった。じんじんとか、ズキズキとか、そんな類の鈍い痛みだった。けれど、痛みの奥には確かに、鋭い針が存在していた。
お母さんは怒っても笑っても泣いてもいなかった。なんの感情も読み取れない、だが足田のそれとはまた違う表情を浮かべていた。これも無表情と呼ばれるのだろうが、無表情にしてはやけに重たかった。私は英語のテスト用紙を抱いたまま、涙を流していた。お母さんは手を伸ばして言った。
「それは?何点?英語よね。」
私は答えず、またおとなしく差し出すこともしなかった。代わりに、私の頭ほどの高さまでテスト用紙を持ってきて、破いた。ビリビリと言う音はやけに湿っている気がした。
これでいいんでしょ、お母さん。これでいいんだよね、足田。これでいいんだ、私。大丈夫。大丈夫だ。根拠はなかった。ただ、夕焼けと、足田の言葉と、破り捨てることの強かさが、私にそう思わせてくれた。涙は止まらなかった。きっと、それで良い。
ええな。