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【前章:晴羽(ハルハ)___記憶されざる始まり②】
彼女は彼と交わり、居住区に着いたら産んだ子を一緒に育てようと、心の奥底から強く誓った。
冷たい風が吹き抜ける夜、彼の羽根の音が静かに闇を切り裂く。焚き火のほてりが、二人の顔に影を揺らす。
まるでそれは、地獄の底に落ちかけた魂が、たった一度だけ許された安息だった。
けれど、その儚い夢は、あまりにも唐突に砕け散る。
その晩のことだった。
野営の地に、腐肉の匂いが漂い始めた。獣人類でも本能で忌避するほどの、死に近い腐臭。
彼が先に気づいた。「匂う。Xか、それとも……」
言い終えるより早く、黒く蠢く影が襲いかかってきた。
「ィ、ィイ、ヨネ、ッ?」
それはかつて人だった者の成れの果て。恐らく、獣人類化実験の失敗作___X。
過去を生きた、動く残骸。
彼はすぐに彼女を抱え、空へ舞おうとした。
直後、ぴたりと動きが止まったかと思うと、彼はハルハを手放した。
足を噛まれていたのだ。
「逃げろ!!!」
断末魔のように叫ぶその声を背に、彼女は一瞬、躊躇った。
千切れる羽、紅に染まる空。
彼はもう、地に叩きつけられていた。
心のどこかで理解していた。ここでは、夢を見ることも、望むことも、許されない。
彼女は、祈る暇すら与えられず、再び羽ばたいた。空は灰色、空気は重く、風は泣いていた。
彼女の腹には、命が宿っていた。それだけが、彼と過ごした証であり、唯一の希望だった。
翔羽ではなく、ハルハとして生きる意味が、ようやくそこに芽吹き始めていたのだ。
そして数日後。
北へ、北へと飛び続けた果てに、鉄と煙と、遠く轟く警報の音が聞こえた。
ドーナツ状の巨大な構造物___C区。外周は鋼鉄の塀で覆われ、上空には迎撃用の熱線塔が並んでいる。
「……ここ、だ。」彼が最後に言っていた場所。獣人類の居住区。
彼女は最後の力を振り絞って滑空し、着地と同時にその場に崩れ落ちた。
目を開けた時、鉄扉の隙間から、少女のような兵士がこちらを見下ろしていた。
「___っ、誰?鳥人?……女……?こっちへ!」
それが、彼女がこの地で初めて出会った“人間”だった。
だがその兵士は、まだ知らなかった。
この白き獣人が、自らの命を削りながら、いずれこの地に「次代の存在」を産み落とすことを。