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翳
🦇
男は笑っていた。まるで僕の回答をとっくに知っているかのように。
蛇座が死んだ。
1ヶ月前から突如として広まった致死率の高すぎる病。僕と蛇座は毎日主にこの病気の患者を診て治療していた。その病が,蛇座に魔の手を伸ばした。もとより体の弱かった彼の進行の早さははっきり言って異常だった。患ってたった5日で,彼の心臓は鼓動に疲れ眠りについた。誰よりも懸命に治療に励んだはずだった。この1ヶ月ほとんど眠っていないけれど,この病を少しでも食い止められるのならと,蛇座の反対を押し切って勤しんできた。それなのに,どうして僕ではなく蛇座が命を落とさなければならなかったんだろう,どうして僕だけが生き残らなければいけないんだろう。それでも,患者を不安にさせないように,心配をかけさせないように,なるべく表情に出さないようにした。けれども患者たちはだんだんと気づき始めていた。噂に聞く腕のいい医者がいると聞いて僕の元へ来ても,どのみち皆等しく冒され続けやがて死ぬ。こんな小娘一人に自らの命を預けるという決断は,そう簡単に下せるのもではない。昔から贔屓にしてくれていた人たちも,だんだん別の医院へ移って行った。
「やっぱり,こんな小さな女の子がこの病気をどうにかできるはずなかったわ」
「街の方の病院へ行こう。そこなら医者ももっと沢山いる。」
「流行病も食い止められない。13星座の式典にも出席しない。とんだ無礼者だ。」
残った患者の口々からも,呆れと嘲弄が漏れた。だんだん僕の周りから,人がいなくなっていった。
「わたしはお前さんを信じているよ。きっといつかこの病魔を食い止めてくれるってね。」
ただ一人だけそう言って笑ってくれたお婆さんがいた。けれどその人も数日後今までの患者と同じように静かに息を引き取った。その人が,僕の最後の患者だった。
結局,医院には僕以外誰もいなくなった。ほんの1ヶ月前まであんなにも人で溢れていたのに。一人でも多くの人を救うために医者になるなんて,とんだ妄言だった。結局この病に冒された人誰一人として救えていなかった。虚言者だと言われても,未熟者と言われても,仕方がないだろうと自嘲した。
あれからいくつの日が経っただろうか。空腹も喉の渇きも気にならなかなっていた。ただ,かつて蛇座がよく戸愚呂を巻いていた受付台に身を伏せていた。何度埋葬を掘り起こして生存を確認しただろう。何度見ても事実が変わることはないのに,期せずして温もりが戻っているかもしれないなんて,ありもしない希望を抱いて。
「随分と廃れましたなァ蛇使い座。」
突然声が聞こえた。声の出所は視界の中にはなかった。伏していた重々しい体を無理矢理起こして辺りを見回した。しかし,どこにも誰もいない。
困惑していると,受付台の影が妖し気に揺れると,ゆっくりと人影を造形した。しかしただの人影ではなかった。4本しかない指の爪は鋭利に伸び切り,長さの違うツノが3本見える。尻尾は鯨や蛇のように太く長く,蝙蝠…いや,小柄のドラゴンほどの大きさの漆黒の翼が揺れる。片目は髪に隠れて見えないが,見える片目からは禍々しい雰囲気を感じる。そして何より,人型の蛇座よりも高い。
一目で見てわかる。こいつは悪魔だ。
「まぁまぁそう身構えずに。」
男はクフフと奇妙に笑いながら,ゆっくりと僕の方に歩み寄った。僕は睨みつけるようにそいつの顔を覗くが,近づくたびにその巨大が強調され,まるで意味のない。そして,あり得ないようなことを口にした。
「ワタクシは,蛇座を蘇らせる方法も,この病魔を食い止める方法も知っている。」
僕は逸らしかけいた目線をすぐさま男に向けた。そして思わず言葉がこぼれた。
「今,なんて……?」
声は震えていた。男はまたクフフと不敵に笑った。
「蛇座を蘇らせる方法も,この病魔を食い止める方法も知っている,と言いました。嘘偽りなく,まったくその言葉の通りのことです。」
僕は息を呑んだ。あれから何度,蛇座の重く閉じて開かない瞼を見つめたことか。蘇らせる方法があのなら一刻も早く知りたい。けれども,それは医師としてその道を外れた禁忌である。蛇座は仮にこの世に再び呼び戻しても,きっと…………。
「ワタクシはアナタの気持ちがよーくわかる。守りたいものも守れず,それを周りに理解されない。さらに蔑まれ避けられついには嘘つき扱い。庶民というのは実に自分勝手で愚かなものだ。自分さえ良ければそれでいいと思っている。」
違う,そんなような人ばかりじゃない,そう言おうと口を開く。
「結局自分が助かればそれでいい。恩など忘れて直近の未来のみを見て選ぶ。その先にことなど誰も真面目に考えてはいない。」
違う,そんなことない,そう言うために唾を飲む。
「その庶民を野放しにする星座…特に12星座さえも愚かだ。何故誰もこの騒動について言及しない。何故誰も解決の目処を立てようとさえしない。」
違う,違う,そんなこと………
「結局自分の周りだけしか見えない者たち……そんな者にアナタは未来の主人を失ったのではないですか?」
何も,言い返せなくなった。この男のいうことが正しいような,そんな気がしてきてしまった。思考がうまく働かない。視界が霞む気さえする。
男は僕の様子をじっと伺うと,懐から一冊の古びた本を取り出した。随分昔の本なのだろう,題名の文字が薄汚れて見えない。表紙の埃とカビだけ見ても,状態がいいものではないことは一目瞭然だった。それなのに,僕は釘で打たれたようにその本から視線を移せなくなった。禍々しい雰囲気が溢れている。手を出してはいけないと全身が警報を出している。しかし,それでも視線を移せない。欲しい,とほんの一瞬思った時,それまで少し黙っていた男が再び口を開いた。
「この本には死者蘇生も,不老不死も可能にする方法が記されています。この2つだけでも得ることができれば,アナタの望むもの,望む未来に大いに近づくことでしょう。」
死者蘇生。不老不死。どちらも医師の世界では最も禁忌とされていることだ。人智を超えすぎた力は返って禍を呼ぶ,何度も肝に銘じたことだ。
それなのに,僕の心の中からは欲しいと思う気持ちが大きくなっていた。手を出したらいけない,2度と後戻りできなくなる,絶対に後悔する,そう思う気持ち以上に,蛇座に会いたいという気持ちの方が強くなってしまっていた。死者蘇生の力があればそれが可能だし,不老不死の力があればあの病の薬の研究が進む。
そう考えると,死者蘇生も不老不死も,悪いものではないのか…?禁忌を犯しても人様のためにならないだろうか…?わからない…僕は一旦,どうしたら……………。
「もしこの本を手に入れたいのであれば,一度ワタクシと契約していただきましょう。なぁに,少し力を得るための力をお貸しするだけです。」
僕は,再び本を見た。この本があれば,また蛇座に会える。
「さぁ,どうしますか?」
男は笑っていた。まるで僕の回答をとっくに知っているかのように。
僕は結局,その悪魔の契約を交わした。その時頬に烙印されたような激しい痛みがあったが,男から本を手渡されると,もう気にならなくなった。
「もし万が一,契約を破棄するようなことがあれば,その時はワタクシがアナタの魂を喰らうことになるでしょう。悪魔との契約に取り消しは存在しない……それだけ,覚えておくことです。」
男はそう言う最後まで,笑っていた。そして,再び影の中へと溶け込むように消えていった。まるで初めから誰も来ていなかったかのように,この部屋は初めから何も変わっていなかったかのように静寂を貫いている。しかし,僕の手は確かにあの男からもらった古びた本を保有していた。とんでもないものに手を出してしまったかもしれない。そんな思いがドッと溢れて血の気が引いていくのはわかった。
しかし,だからこそもう後戻りはできない。恐る恐る本を開くと,ほとんど文字の見えない箇所も少なくないとわかった。さらに言えば,何枚か破られてしまっている。あまりの状態の悪さに少しだけ失望したが,求めるものは幸い文字がなんとか読むことができる。この工程を介すれば,僕の望む未来はすぐそこだ。
なんで,どうしてこの時本を受けってしまったんだろう。どうしてあの男に言いくるめれてしまったんだろう。こんなことになることは安易に想像できたはずだったのに。
人は後悔して初めて,過ちに気づく。