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二 魔法使い
窓の外は点々とした羊雲の浮かぶ快晴。
青空は退屈な子供にとって最適な暇潰しの舞台だった。白い雲が風に吹かれて、帆を張った船のようにゆったりと青い海を流れている。僕は海賊船の船長で、相棒は黒猫のナナだ。望遠鏡を覗いて大海を見渡す。刹那、僕の視界の端には虹色のオウムの翼がちらつく。
伝説の宝島が近くにー
「花くん?今は何の時間かなぁ?」
僕の宝島大発見は突然誰かの声に遮られ、海賊船の浮かぶ大海はたちまち泡のように弾けてなくなってしまった。教室の皆が僕の方を見てくすくすと笑っている。先生はコツコツと白チョークで黒板を叩いた。
「正解!今は算数の時間だよね?ほら、前を向いてないと集中できないですよ。」
僕は何も答えていないのに、先生は勝手に自己解決して二桁の掛け算の話に戻ってしまった。斜め前の女の子達が僕の方を指さしてまだこそこそ笑っている。だけど僕はこんなことは慣れっこだし、こんなにいい天気の昼下がりは二桁の掛け算をするより海賊船に乗って宝探しをする方が楽しいに決まっている。
その日の放課後、僕はアスファルトの欠片を蹴りながら一人で帰っていた。家に帰ったらナナに餌をやって、海賊の話をしてあげよう。隣を何人かの子どもたちが騒ぎながら走っていく。大人達はやけに僕のことを心配するけれど、僕は全然寂しくなんてない。僕の頭の中は宇宙よりも広くって、そこでは海賊王になって七海を制覇したり、空飛ぶ翼竜になって百獣の王として君臨したりするのだ。それに僕にはナナという一番の友達もいる。僕はナナを連れて、色んな所を冒険したものだ。
僕の蹴っていた欠片は段々と角が取れて丸い石になってくる。丸い石はころころとよく転がるので、その日の僕はつい夢中になって知らない道に入り込んでしまった。
こつ。
空っぽな音を響かせて石は壁にぶつかった。行き止まりだ。ふと前を見上げると、いつの間にか通学路から外れた僕は駅前の商店外の入り組んだ路地裏に入ってしまっていた。帰ろうとして後ろを振り返ると、どうしてか行く手は全く同じ壁に遮られている。向こう側から歩いてきたはずなのにおかしなことになってしまった。四方を壁に囲まれて困った僕が上を見上げると、綺麗な四角形に切り取られた夕方の空に羊雲が流れている。でもこの羊雲は四角形の空の真ん中で、栓を外した湯船の排水口に吸い込まれるお湯のようにぐるぐると螺旋を描いている。僕はこんな雲は見たことがなかったので不思議に思って上を見つめていると、背後から誰かの声がした。
「綺麗な雲でしょう?」
驚いて視線を落とすとさっきまで僕を囲っていた壁は光沢のあるペラペラの壁紙のようになってしまって、情けなく弛んでいる。試しに僕がそれを暖簾のように片手で押してみると、壁は口に入れた瞬間の綿飴のように溶け去ってしまった。壁の向こうに続いているはずの商店街は、暑中見舞いの絵葉書のように真っ白な砂浜に変わってしまっている。辺りを見渡すと砂浜はずっと向こうまで続いていて、恐るべきことに僕の目の前には青い海が開けているのだ。優しい波が砂浜に打ち付けられて、白い泡を立てながら引いていった。空はさっきの夕焼け色で、螺旋模様の雲が沢山浮いている。僕は波打ち際まで歩いていって、水平線に目を凝らしてみた。さっきの声は海賊船の船長かもしれないからだ。
しかし、真っ直ぐな水平線の際に立っていたのは海賊船よりずっと大きいものだった。それの身体には小さな雲のような細かい螺旋模様が刻まれて、金色の|鬣《たてがみ》が海風にさわさわと揺れている。それに海のずっと深い所にいるはずなのに、まるで水たまりに立っているかのように長い脚が水面から現れている。それの周りには淡い金色が漂っていて、ずっと見ていたくなるような柔らかい光を纏っていた。僕はずっと昔に本で読んだ中国の伝説の神獣、|麒麟《きりん》について考えた。
「おや、麒麟が見えるかい?」
ふと、さっきの声が背後からした。僕が振り返ると、背が高くて変な格好の若い男が砂浜に立っている。瞼にかかった白色の癖のある髪に、病院のお医者さんのような白衣。外国の人のように深い緑色をした眠たそうな瞳には、僕の姿が映っていた。
「海賊ですか?」と僕は尋ねた。
「海賊ではないなぁ。」
男は僕の隣に腰を下ろして微笑んだ。
落ち着いた優しそうな声は、僕に怒る先生の声なんかと違って、海のさざ波みたいだと僕は思った。
「だけど、海賊よりもずっと素敵なものさ。
僕は魔法使いなんだよ。」
僕は魔法使いを初めて見たので、びっくりしてしまった。僕が想像する魔法使いはもっと顎髭が長くて、紫色のマントを纏ったお爺さんの姿のはずだ。
「お兄さんは魔法使いには見えない。」
と僕は言ってみた。
「おや。」
柔らかそうな白色の髪がふわりと海風で浮きあがって、魔法使いは僕の目をじっと見た。
「そうだね、むしろ僕よりも君の方が強いかもしれない。だから君がここにいるわけだ。」
「僕はよく女の子みたいな名前だ、って馬鹿にされる。」
「君はここに強力なものを持っているから、そんなことを言われたって大丈夫さ。」
魔法使いは僕の心臓を指さした。
僕が黙っていると魔法使いは僕の肩に手を置いて、もう一度言った。魔法使いの手はとても冷たい。
「花君には麒麟が見えるようだね。」
「なんで名前...?」
「魔法使いは何でも知ってるんだよ。びっくりしちゃった?」
僕が怪訝そうな顔をするので、魔法使いは面白そうに笑って思いついたように付け加えた。
「君は珍しい力を持っているみたいだね。普通の人には麒麟が見えないはずなんだけれど。」
「子供騙し。」
「ふふ、違うよ。でも花君は難しい言葉を知っているね。」
魔法使いは海の向こうを見つめて呟いた。
「僕も昔、そんな子供を一人知ってたなぁ。とっても賢い子供だった。」
それから長いこと魔法使いは僕の隣で何も言わなかった。僕は真っ白な白衣の裾に波飛沫が積もっていくのを観察する。随分時間が経って真っ赤な夕日が海に向こうへ傾き始めると、僕はナナにまだ餌をやっていないことを思い出した。
「僕はもう帰らなきゃいけない。」
「そうかい?もう少しここにいればいいのに。」
「友達がお腹を空かせて待ってる。」
僕には魔法使いが少し寂しそうな目をしていたように見えた。
「花君、僕はまた君に出会えそうな気がするよ。」
魔法使いは立ち上がって白衣についた白い砂を払った。そうして砂浜を少し歩くと、停電中の暗闇で懐中電灯を探す時のように空中を探った。
「何を探してるの?」
「出口さ。ここらへんに隠してあるはずなんだけど。」
あった、と暫くして魔法使いは言った。
がちゃりという音とともに目に見えない扉を魔法使いが開けると、砂浜の空間がそこだけ切り取られたようになくなってしまった。僕が外を覗き込むと、いつもの通学路が続いていた。
「またね、」と魔法使いは言った。
「さよなら。」と僕は返して扉の向こうへ踏み出した。
「ナナによろしくね。」
「え?」
何でナナを知ってるの、と聞こうと振り返った頃には砂浜はなくなっていた。扉があった所を触ると、夕方の生温い空気に変わっている。
夕焼け色の空には普通の羊雲が流れていた。