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第二話 歪んだ景色
翌朝、セレーネは早くから目を覚ましていた。昨夜の宴の賑わいが嘘のように、王城はまだ静まり返っている。寝台の傍らには、いつもなら侍女クラリスが用意してくれる衣装が整えられていたが、今日は違った。セレーネは自ら箪笥を開き、地味な色合いの外套を手に取った。
――少しだけでいい。
――城の外を、自分の目で確かめたい。
胸の奥で、昨日から燻り続ける思いがそう囁いていた。
「姫様、もうお目覚めで…あら、それは?」
クラリスが部屋に入ってきて、セレーネが外套を羽織ろうとする姿に目を丸くした。
「ちょっと…外を歩いてみたいの」
「外…と申しますと?」
「城下町よ。広場や市で、皆がどんな風に暮らしているのか、この目で見たいの」
クラリスは困惑の色を浮かべた。
「姫様、お一人で城下を歩かれるなど、陛下がお許しになるはずが…」
「だから、内緒にしてね。ほんの少し、見てくるだけ。必ず戻るわ」
セレーネの声には、いつになく強い意志があった。仕方なくクラリスは、深いため息をつきながらも頷いた。
「…せめて、このマントを。目立たぬよう、顔を覆ってくださいませ」
クラリスが差し出したのは、粗末な布で作られた灰色のマントだった。セレーネは微笑み、感謝の言葉を口にして、それを頭からすっぽりと被った。
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朝霧の漂う城下町。市場には商人たちが品を並べ始め、焼きたてのパンの香りが漂っている。子供たちが追いかけっこをし、犬が吠え、日常の活気がそこにはあった。
――やっぱり、幸せそう。
セレーネは少し肩の力を抜いた。民の笑顔を見れば、父の言葉が間違いでないように思えたのだ。
だが、広場を過ぎ、町外れへと足を向けた時、空気ががらりと変わった。石畳が途切れ、土の道に変わる。建物の壁は崩れかけ、窓には板が打ち付けられている。そこを歩く人々の顔からは笑顔が消え、疲れきった影が深く刻まれていた。痩せこけた子供が地面に座り込み、空になった木の椀を抱えている。母親と思しき女は、虚ろな目で行き交う人々に手を差し伸べていた。
「…どうして」
セレーネは立ち尽くした。城の窓から眺めた景色には、こんな姿は映っていなかった。父が語った「飢えを知らぬ国」に、なぜ餓えた子供がいるのか。
その時、背後から怒鳴り声がした。
「おい、そこをどけ!」
見ると、王国の兵士たちが列をなして歩いてくる。手には荷車が引かれ、そこには袋に詰められた穀物が山積みだった。兵士が女の手を乱暴に払いのけた。
「物乞いどもが!これは王都へ運ぶものだ。郊外の分などあるものか!」
女は地面に倒れ込み、子供が泣き叫ぶ。セレーネの心臓が強く跳ねた。
「待って…!その穀物は、民のものではないのですか!」
思わず声をあげてしまった。兵士たちは驚いて振り返る。マントの陰から覗く瞳に、ただならぬ気配を感じ取ったのか、ひそひそと顔を見合わせた。
「お前、どこの娘だ。…まさか」
兵士の目が見開かれる。セレーネは咄嗟にマントを深く被り直したが、遅かった。
「姫…!」
次の瞬間、兵士が駆け寄ろうとした。セレーネは無我夢中で駆け出した。人混みをすり抜け、狭い路地を曲がる。後ろから兵士の怒声が響いたが、必死に足を動かす。
――逃げなきゃ。
――ここで捕まれば、二度と外の世界を知ることはできない!
心臓が破裂しそうなほどに鼓動する。ようやく人影のない小さな広場に辿り着くと、セレーネは石壁にもたれかかり、荒い息を吐いた。目の前に広がるのは、瓦礫に埋もれた家屋と、炭の匂いの残る焼け跡。その隅で、痩せた少年がじっと彼女を見ていた。
「…お姫様?」
かすれた声。セレーネは驚いて口を押さえたが、少年の瞳には敵意はなく、ただ憧れるような光が宿っていた。
「ほんとに…助けてくれるの?」
その言葉は、胸を突き刺すほどに重く響いた。セレーネは答えられなかった。だがその瞬間、彼女は悟った。
――この国は、わたしが知っていた「幸せの国」ではない。
目の前にある景色は、偽りの幸福の裏で切り捨てられた人々の現実だった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。