公開中
第1話 『依頼人は泣きながら笑った』
夜明け前の街は、人間の鼓動が止まったように静かだった。深夜の喧騒と早朝の足音の狭間、世界が一旦息を潜める時間帯。|黒澤《くろさわ》|刻《とき》は、その静寂の中を歩いていた。
小さな黒いボストンバッグを片手にぶら下げ、もう片方の手にはスマートフォン。画面は点灯しているが、メッセージを読み終えているのか視線はそこから離れている。足音はほとんど響かない。歩きながら常に地形と周囲の視線の流れを把握しているため、無意識に最も影の濃いルートを選んでいた。
---
行き着いたのは古いアパートの一室。三階の突き当たり、外廊下の端。街頭が届ききらず、薄闇が張り付く場所。
扉の前には、依頼人がいた。
女性──二十代後半だろう。両目は腫れ、化粧は涙の跡で崩れている。冷たい風が吹くたびに身体を縮めて震えているが、視線は必死に刻を追い、頼りを求めるように縋ってくる。
「黒澤刻、君、ですね…?本当に、来てくれたんですね…」
絞り出すような声。刻は頷き、短く返した。
「依頼内容は確認した。時間がない。中へ」
女性は鍵を震える手で開ける。ぎし、と鳴った扉の向こう──血の匂いが、強く漂った。
リビングの中央に、男が倒れていた。頭部から流れた血が床を染めている。既に死亡しているのは明らかだった。
女性は口元を押さえるが、また泣くわけではない。むしろ──笑っていた。泣き顔なのに、唇だけが歪む、狂気に近い笑み。
「私…やっと…やっと終わったんです…あの人を殺して…やっと自由になれる…!」
刻は表情を変えず、ボストンバッグを床に置いた。
「感情の整理は後でやれ。状況を話せ」
「あ…っ、はい…っ」
女性は震えながら話す。
・夫からの長年の暴力
・離婚を望んでも逃げられない状況
・今夜、ついに反撃してしまったこと
・気がつけば包丁を握り、夫は倒れていたこと
「生きてはいません。脈を…確認しました。警察はまだ呼んでいません。呼ばない方がいいですよね…?」
「ああ、呼べば君は逮捕される。俺はそのために呼ばれたわけじゃない」
刻は膝をつき、現場を一瞥する。血痕の飛び方、家具の倒れ方、倒れた位置、刃物の深さ──すべてを無言で解析する。
その目は、探偵が真相を暴く時と同じ冷たさだった。ただし目指すものは正反対──真相を"隠す"こと。
バッグから取り出したのは、洗剤でも薬品でもない。精密工具、細工用のノコギリ、吸収布、消臭剤、溶解剤、無数の小瓶。どれも市販されているものだが、組み合わせ方は常人の知る領域ではなかった。
事件の痕跡を──消すため。
「一時間貰う。君は手を出すな。見ない方が後悔は少ない」
女性は震えながら頷く。刻は手袋を嵌め、淡々と作業に取りかかった。
床の血痕は拭き取られるだけではない。溶かされ、分解され、素材の目地ごと加工される。家具の倒れ方は衝突角を計算し、自然な転倒に矯正される。刃物は別の原因へ差し替えられる。死体の姿勢、傷の角度、死亡推定時刻──全て"事故"として処理されるよう再構成されていく。
彼の指の動きは芸術にも近かった。真実という像を壊し、別の像へと彫り替える彫刻家。
女性は見ていられず、視線を逸らしていた。しかしやがて気配に気付き、刻の手元をちらりと覗いた瞬間──息を呑んだ。
そこにあるのは死体ではなく、転倒事故で頭を強打して倒れた男性の姿。
包丁はもう、彼女の犯罪の証拠ではない。ただ台所に置かれた食材に添えられた調理器具でしかない。
「これでいい。救急に電話しろ。『気づいたときには倒れていた』──そう言えばいい」
「で、でも…怒られない…んですか…?嘘だって…」
「事故死だ。誰も嘘を疑わない。そう作った」
女性は崩れるように泣き崩れた。今度の涙には笑みがなかった。
「ありがとうございます…!本当に…本当に助けてくれて…!あの人から…やっと──」
「俺に礼はいらない。依頼料を」
女性は黙って頷き、封筒を差し出した。刻は受け取ったが中身を確認しない。信頼しているわけではない。"確認の必要がない"だけだ。万が一足りなければ次の依頼を断ればいいだけ。
帰ろうとした刻の背に、女性の声が震えながら追いかけた。
「あの…黒澤さんは、どうしてこんな仕事を…?」
刻は振り返らない。
「消さなければならない痕跡があるからだ」
意味は語られない。扉が閉まる音と共に、彼は闇に消えた。
夜明けが近づき、街は再び息を吹き返し始める。しかし黒澤刻の世界では、夜はまだ続いていた。
---
スマートフォンが震える。新着メッセージ──依頼だ。
そこに書かれていたのは、短い一文。
『消せない"事件"がある。助けてください』
刻は足を止める。胸の奥が微かにざわめいた。
「…次は、"消せない"のか」
夜が、さらに深く──続いていく。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます♪
第2話『消えない血の跡』