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愛別離苦
Rainer
私の中学校生活。現在進行形
中学一年の春、俺はE組だった。
教室の窓側、やけに光の入り方が白くて、机の角だけが少しだけ浮いて見えた。新しい環境というのは、いつも少しだけ現実感が遅れてくる。名前を呼ばれて、返事をして、席に座って、それでも「自分がここにいる理由」がまだ体に馴染まない。
好きな人とは、また同じクラスになれなかった。
それだけのことなのに、その事実だけが妙に重かった。まるで何かを選び損ねたまま人生が進んでしまったような、そんな感覚だった。
委員会には入らなかった。理由はなかった。強いて言えば、「何かをやる自分」をまだ信じきれなかったからだ。やる気がないというより、やる理由が見つからないまま時間だけが流れていく感じだった。
部活はバレーボール部に入った。小学校の頃、少しだけやっていた。その延長線に立つことは、唯一の“過去との接続”だった。
三年生の先輩は、やけに大きく見えた。
ただ背が高いとか、筋肉があるとか、そういう単純な話じゃない。コートに立つだけで空気の密度が変わる。声が通るというより、空間が従う感じだった。俺たちはまだボールに振り回されているだけの存在で、その差は技術という言葉では埋まらないもののように思えた。
一年生は九人入部した。
その中に山内がいた。
小学校では一度も話したことがない。なのに、最初から「関係がある人間」のような顔をしていたのが気に入らなかった。あとから知ったが、好きな人の幼馴染らしい。それを聞いた瞬間、妙に喉の奥が引っかかった。
関係のないはずの人間が、勝手に自分の領域に侵入してくる感覚。
山内は上手かった。器用だった。要領もよかった。何より、人の距離感を測るのがうまかった。
だから余計に、憎たらしかった。
俺には幼馴染がいた。
松原というやつだ。
マスクをしているときと外したときで印象が違う、いわゆる“マスク詐欺”なんて軽口を叩かれていたが、俺にとってはそんな言葉はどうでもよかった。問題は、その“違い”に自分だけが少しずつ慣れていくことだった。
最初はただの知り合いの延長だったはずなのに、いつの間にか「他人ではない存在」として認識している自分がいた。
気づいたときには、少しだけ目で追っていた。
それ以上でもそれ以下でもない、中途半端な距離だった。
半年が過ぎた頃、俺は保健委員になった。
理由は本当に些細だった。なんとなく、空気が静かだったからだ。
そこで、河野がいた。
好きな人だった。
“好き”という言葉は軽いのに、実際にはかなり重い。何もしていないのに、見ているだけで自分の中の何かが勝手に動いてしまう。
河野は、普通に可愛かった。
その「普通さ」が逆に現実味を持たせていて、遠い存在ではなかった。だからこそ、余計に手の届かなさが曖昧になっていた。
ある日、LINEが来た。
画面に表示された言葉は、やけにあっさりしていた。
「好きです。付き合ってください」
一瞬、理解が遅れた。
脳が意味を処理するより先に、心臓だけが反応していた。
返事は短かった。
「OK」
その二文字で、関係が変わるという事実が不思議だった。
人間関係というのは、もっと段階的に崩れたり積み上がったりするものだと思っていたのに、実際はスイッチみたいに切り替わる。
初デートは水族館だった。
ガラスの向こうを泳ぐ魚は、静かすぎて現実感がなかった。音がない世界にいると、自分の言葉だけが浮いていく。
何を話したかはほとんど覚えていない。
ただ、「楽しい」という感情だけが、妙に遅れて残った。
帰り道、もう一度行きたいと思った。
その感情は、恋というより「続いてほしい」という願いに近かった。
しかし、現実はいつも少し遅れて崩れる。
テストが終わった日、俺は何も疑わずに連絡をした。
返ってきたのは短い文章だった。
「ごめん」
「好きじゃなくなった」
「別れたい」
意味は理解できるのに、感情が追いつかなかった。
引き留める言葉はいくらでも出てきたのに、それらはすべて喉の奥で止まった。出した瞬間に壊れてしまう気がしたからだ。
結局、何も変えられなかった。
翌日、山内がやけに髪を整えていた。
いつもより少しだけ前髪が揃っていて、それだけで別人みたいに見えた。
「どうしたんだよ」
そう聞くと、山内は笑って、
「秘密」
と言った。
その瞬間、なぜか全部が一本の線でつながるような気がした。
でも、確かめる気は起きなかった。
知ってしまったら、何かが確定してしまう気がしたからだ。
俺は思ったより早く、その出来事を「過去」にできた。
恋愛から距離を置こうと決めたのは、諦めというより疲労に近かった。
期待することと裏切られることの差が、もう釣り合っていなかった。
二年生になった。
松原と同じクラスになった。
それだけで、少しだけ生活が明るく見えた。
たまにLINEをする関係は、ちょうどよかった。深くもなく浅くもない。そこに意味を求めなければ、壊れない距離だった。
ある日、松原が言った。
「ちょっと気になってる」
その言葉の重さが分からなくて、俺は軽く「ありがとう」と返した。
後から、それが“付き合う”という意味ではないことを知る。
人間関係は、定義がないまま進むと必ず誤解が生まれる。
そして誤解は、だいたい一方通行だ。
二週間後、松原は彼氏ができたと言った。
その瞬間、何かが静かに壊れた。
音はしなかった。ただ、内側だけが少し空洞になった。
夏になった。
三年生が引退し、部活は俺たちの代になった。
キャプテンに選ばれたのは俺だった。
山内でもなく、小梛でもなく、俺だった。
理由は分からない。ただ周囲の空気が一瞬だけ濁ったのは分かった。
納得していない顔。認めたくない視線。
それら全部が、妙に心地よかった。
たぶん俺は、その瞬間だけ少しだけ救われていた。
「いい気味だ」
そう思った自分に気づいても、もう止めなかった。
人は、何かを失いながらしか前に進めない。
それが恋愛なのか、友情なのか、単なる時間なのかは分からない。
ただ一つ分かっているのは、失ったものの名前を全部覚えているうちは、まだ人は完全には壊れないということだ。
だから俺は、コートに立つ。
ボールが落ちる音だけが、やけに正確に世界を区切っていく。
そしてそのたびに思う。
まだ終わっていない、と。
書いていても疲れる。