公開中
一頁 とある婚約者。
「ぬるい」
ピシャッと言われた言葉に、私は身を縮こませた。
「申し訳ございません。淹れなおして参ります」
私は婚約者の部屋を後にした。ここで暮らせるのは幸せだが、なかなかつらい。
私、|唯音《ゆいね》がこの邸宅に来たのは1週間とちょっと前。私はこの邸宅に住む|柊木《ひいらぎ》家当主、|千歳《ちとせ》様の婚約者としてやってきた。柊木家といえば国内でも有数の財閥家。女学生で庶民の私とは“もう”無縁だと思っていた世界だ。ついでに私の通う女学校の校長が柊木家の前当主。
庶民、女学生の私が、なぜ。
千歳様は、こんな噂があった。
「千歳様は美しい容姿だけれど冷酷で、なかなか女性の方に心が開けないのよ」と。それに、|色恋沙汰《スキャンダル》の噂も絶えないらしい。
その頃は“もう”無縁だとおもった。心の奥底で何かがざわついた。
---
千歳様と“はじめて”お会いした時は、びっくりした。本当に容姿端麗と以外何も出てこなかった。
白磁を思わせる滑らかな肌に、涼しげな切れ長目。瞳はビイドロが嵌め込まれたかのように綺麗で、少し茶色っぽい。端正な顔立ちは、まるで精巧な硝子細工のようだった。
服も一高生の学生服。漆黒のインバネスコートも羽織っている。似合っている。綺麗だ。
「……お久しぶりです。田上唯音と申します」
三つ指を突き、私は深々と挨拶した。
「………」
千歳様はしばらく何も言わなかった。第一声はこれだ。
「久しぶりとはなんだ、お前は」
---
私は新しい自室でため息をついた。今は千歳様は学校でいない。私は少しだけ早く帰ってきた。
覚えていらっしゃらないのね、“千歳”は。
昔、本当に昔。私たちは幼馴染で、隙があれば遊んでいた。互いに惹かれた。恋人になった。
嬉しい時も悲しい時も悔しい時も幸せな時も、千歳が一緒だった。
「将来は僕のお嫁さんね」
そう言われた時、私は嬉しくて頬を真っ赤にしながら「うん」と言った。
千歳に縁談が舞い込んだのは、それと同時期だった。
それからは千歳に会えなかった。5、6年くらい。尋常小学校を出ても、女学校に入っても、千歳を忘れたことはなかった。
しかし、今までの言動で覚えていないと推測される。態度も噂通りの冷酷無慈悲だし、必要最低限の会話以外、喋っていない。
まあ、仕方がない。期待してはいけない。そう、期待はいけない。こうやって嫁いで貧乏な両親を助けないと。
でも、と私は思う。
(昔みたいに一緒に過ごせたらな……)
そう考えて、首を横に振る。そんなこと起きるわけが——
恋心に封をして、私はお茶を淹れに台所へ向かった。
千歳“様”が帰ってきた時のために。