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続き書くか迷う
投げるわ
2025/05/17
可哀想な子だ。
初めて加藤沙織という人物を目にした時、そう思った。加藤沙織は更衣室で小柄な女の子をいじめていた。たまたまドアが少し開いていて、隙間が生まれていた。人もほとんど来ない、寂しい旧校舎の4階だったので油断していたのかもしれない。のちにいじめられている女の子の名前は久世結衣だと知った。結衣は壁際に追い詰められ、ヘナヘナと力なくへたり込みながら、苦しそうな表情をしていた。加藤沙織は結衣の長く美しい黒髪をひっぱって彼女を立たせた。結衣は大粒の涙をボロボロと流しながらいじめに耐えていた。そんな健気な女の子を、加藤沙織は気持ち悪いと容赦なく罵っていた。
私は静かにその場を後にした。もうこのことは忘れようと決意しながらも、頭の隅では加藤沙織の姿がへばりついて離れてくれなかった。加藤沙織にも、自身を大切におもってくれている誰かがいるだろうに。気にかけてくれるような、愛してくれているような人。
次の日も昨日のことが気になってしまい、昼休みに高速でお弁当を食べ、旧校舎の4階更衣室に向かった。ドアは閉まっていたが、音が中から漏れ出ていた。ロッカーに何かが当たったような鈍い音が響く。おそらく結衣が加藤沙織に突き飛ばされたのだろう。
痛そう。自然と顔が歪む。不意に足音が近づいてくることに気づいた。一瞬、加藤沙織が更衣室から出てこようとしているのかと思い焦ったが、違ったようだ。
「あ」階段を上がってきた山口美緒が更衣室の前に立つ私を見て、そうこぼした。
山口美緒と私は、いわゆる幼馴染であった。だからと言ってとても特別仲が良いわけではない。小学生の時は学校終わりは毎日一緒に帰っていたりしていたが、中学に上がって別々の部活に入ると当然時間が合わなくなる。クラスも同じではなかったため話すこと自体が減っていき、今はなんとなくお互いに気まずい。
「雛乃…なにしてんの…」私を見て怪訝な顔をする。私はしっと自身の唇に人差し指を当て、もう一つの人差し指で更衣室のドアをさす。美緒はさらに眉を顰めたが、こちらにきて更衣室のドアに耳を近づけた。中から加藤沙織の荒れた声がうっすらとだが聞こえてきて、美緒は目を見開いた。困惑した表情で私と更衣室の間で視線を揺らす。10秒ほどそうすると、彼女は私の手を引っ張った。自身が上がってきた階段付近で立ち止まり口を開く。
「雛乃、知ってたの?」
「昨日気づいたばっかだけど…。いじめだよね」
まるで美緒は元から知っていたかのような口ぶりが気になった。そういえば、彼女はなぜこんなところに来たのだろう。
「そうだよね。やばいよね。わかってるんだけどさ」「なに?美緒は知ってたの?このこと」「うちのクラスはみんな知ってるよ。加藤さんも久世さんも同じクラスだしそりゃわかるでしょ…」
思考が停止した。彼女はなにを言っているのだろう。
「知ってるのに放置してるの?」
美緒は下唇を噛んで俯いた。私は続ける。
「そりゃ、自分が犠牲になる必要はないけど、担任に言うとかできるでしょ?簡単なことじゃん」
「…加藤さんは加藤電気の社長の娘なんだよ、有名だよ。だから担任も逆らえなくて黙ってるわけ。逆に久世さんは貧乏らしいし」
怒りが一気に冷めていく。現実はそんなもんなのか。どうしようもできないもんなのか。
「加藤電気はさ、この学校にたくさん寄付してるからさ。校長までいじめのことが伝わったとしても、きっとなにも変わらないよ。先生にチクったことが加藤さんにバレたら、次いじめられるのは自分かもしれない。っていうか、そうなんだよ。久世さんも」
美緒はそこで言葉を止め、諦めのようなうっすらとした笑みを浮かべた。仕方ないんだよと言う彼女の呟きは、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
身体中の力が抜けていくのを感じる。加藤電気のとこの娘か。なら仕方ない。どうしようもない。だから私も賢い他の生徒のように、見て見ぬふりをすれば良い。強者は弱者を潰し、弱者は強者に潰される。それだけの話だった。
「もうそろそろ、お昼終わるね。戻ろう」
腕時計をチラリと見た美緒が言った。