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第1話:その男、一途につき
吉原の夜は、呼吸をするだけで金が舞うと言われるほどに華やかで、そして|酷《こく》な場所だった。
きらびやかな極彩色の街並みの中で、ひと際冷たい空気を|纏《まと》う美しい女がいた。
「氷の花魁」――|真白《ましろ》
白雪のような髪と、誰の誘いも受け流す鋭くも儚い瞳。彼女が通れば、どんな男もその美しさに目を奪われ、そしてその冷たさに心を折られた。
だが、その夜。
彼女の前に立ち塞がったのは、見上げるほどの|巨躯《きょく》(を持つ一人の若い武士だった。
「…………」
194センチという圧倒的な体格、燃えるような赤髪、そして鋭い眼差し。
周りの男たちが気圧されて道を空ける中、その武士――|伍樹《いつき》は、逃げも隠れもせず、真っ直ぐに真白を見つめていた。
(また、物珍しさに寄ってきた|御仁《ごじん》かしら……)
真白は内心でため息をつく。どうせ彼も、力尽くで自分を屈服させようとするか、あるいは金で心を買い叩こうとするのだろう。
真白は冷徹な仮面を崩さず、彼を無視して通り過ぎようとした。
その時だった。
「……君を」
低く、けれど震えるような誠実な声が、彼女の足を止めた。
「君を、ここから連れ出しに来た。今はまだ……金も、地位もない。だが、必ず」
伍樹の大きな拳は、自分自身の不甲斐なさに耐えるように固く握られていた。
真白は驚き、その顔を見上げた。21歳の今から4年前――二人がまだ17歳の頃。
そこにいたのは、欲に溺れた男の目ではなかった。
ただひたすらに真っ直ぐで、愚直なまでに一途な、少年のように澄んだ瞳だった。
「……おかしな|御方《おかた》
真白は思わず、自分でも驚くほど柔らかな声を出していた。
数千の男たちが彼女に跪いたが、これほどまでに胸を打つ言葉を投げた者は一人もいなかった。
遠くで、それを見ていた遊郭のオーナーが、キセルをくゆらせながらニヤリと笑う。
「おいおい、あんな若造が真白を狙うってのか? 面白い。伍樹と言ったか……お前の『誠実』がどこまで通用するか、見せてもらおうじゃねえか」
この日、一人の不器用な武士の「七百両への挑戦」が始まった。
そして同時に、氷の花魁が「恋に生きる乙女」へと溶けていく、長い長い20年の物語の幕が開いたのである。
伍樹は懐にある、なけなしの数銭を握りしめ、心の中で誓った。
(待っていてくれ、白ちゃん。必ず、俺が君を幸せにする)
それが、のちに「伝説の愛妻家」と呼ばれる男の、最初の一歩だった。
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