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君がいない春へ
誰もいない、黙ったままの坂を下る。何処までも広がる静寂の中に不規則に響くのは僕の足音だけで、辺りには人っ子一人いない。時折|鈍色《にびいろ》の雲の間隙から射す光がアスファルトの上で揺れている。それに鬱陶しさを感じながら、胸の奥に|痞《つか》えた塊を抱えて、何も考えずに、ただ歩く。目的地が近づくたび、何度も通って、見慣れた建物が見えてくるたびに身体が邪魔をする。震える足が、唇が、そこに行きたくないと、そう叫ぶ。何も考えていない空の頭を抱えながら、ゆっくりと道を進む。
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「こちらです」
目の前を歩く白衣の男に続いて暗い階段を下った先に、その部屋はあった。重い扉を押した先には少し狭い橙色の照明で照らされた部屋があり、その中心部に白い布で包まれたなにかが横たわっていた。何やらよく聞こえなかったが、男が何か言った後、面布を取った。そこにいたのは彼女だった。紛れもない、僕の愛する妻の顔だった。人の物だと思えないほどの白い肌が張り付いたような痩せ細った身体が、黙ったまま静かに目を閉じている。横で何やら男が僕に語り掛けているが、何も聞こえなかった。
聞きたくなかった。
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彼女が癌で余命を宣告されたのが三年前の今日だった。その際に余命は一年、頑張っても一年半だと医師に言われていた。つい一週間前には病室で『なんだかんだ三年間も生きてるね』なんて笑いあった。退院したら、庭の桜の下で花見でもしようと言って、手を握った。少し瘦せていたが、彼女の手は温かかった。僕がそれを言うと、彼女はまた笑っていた。度重なる手術の中でも笑顔を見せられるようになるまで彼女が回復してくれたことに涙が止まらなかった。こうして笑いあえる日がこの先もずっと続くだなんて、そんな風に思っていた。神様は居るのだ、奇跡は起きるのだとそう思い込もうとしていた。
久々に取れた休みで、彼女の病室に持っていくお見舞い品を選んでいる最中だった。一本の電話が、僕の幻想を嘲りながら黒く塗りつぶした。
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看護師から今後の段取りについての説明をされた後、言われるままに葬儀会社に連絡して、遺体の搬送を依頼した。不思議なことに、いざ彼女の死に直面しても涙は出なかった。この世界から、愛する人が消えてしまったその実感がわかない。家に帰ると、蕾のまま沈黙した桜の木が僕を見下ろしていた。
鯨幕の前で、彼女の両親と数年ぶりに会った。結婚の挨拶の時と比べてかなり年を取った老夫婦は俯き、泣き続けている。けれど二人と対照的に、僕は涙が出なかった。出棺の際に、彼女の顔の横に白い百合を静かに置いた。
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数日が経って、部屋には小さな白い壺が置かれていた。その隣のフォトフレームの中で彼女が笑っている。これっていつ撮った写真だっけ。あぁ、新婚旅行で東京行った時のか。楽しかった。いろんなとこ行けてさ。─────そろそろ夕飯の支度をしないと。あぁ、冷蔵庫の中、何にもないや。
「ごめん、今からなんか買って来るけど………」
振り返った先にあったのは、静寂と、小さな骨壺と、二度と見ることの叶わない笑みだった。彼女はもういないと、そのことを認識してしまった途端、目頭が熱を帯び始めた。
「……あれ……?」
止まない。
「……なんで………」
止まない。
「………結…花……っ……」
袖で拭っても、目を閉じても、止まない。泣き腫らしても、名前を呼んでも、結花は戻ってこないのに。
「……あぁ…ッ…あぁあああ…っがあぁっぁ…ッ!!」
抱えて、隠した負の感情をすべて吐き出すように泣いた。今はただ、声を出したかった。
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起きると、リビングの床の上だった。夜通し泣きつかれて、そのまま眠っていたらしい。ずきずきと痛む頭を抱えながら隣の部屋を見ると、写真の中の結花は朝日に照らされながら微笑んでいる。何もする気が起きず、彼女が眠る部屋のカーテンを開いた。
「……え…………?」
僕の視界は、途端に桜色に染まった。庭の桜が、満開になっていた。ついこの前まではまだ蕾だったはずの桜の花弁が、ゆらゆらと雲一つない青空の下を春風に乗って舞っている。僕が俯き、何も見ようとしないまま過ごすうちに、世界は春を迎え入れていた。花弁が、静かに僕の手のひらに舞い落ちた。降り注ぐ暖かな日差しは、結花の手のぬくもりのようだった。僕はこうして、結花の記憶を抱きかかえて巡る春を何度迎え続けるのだろうか。そんなことが頭を|過《よ》ぎったとき、滲んだ視界の中に桜を見上げて静かに微笑む彼女の姿が見えた気がした。生温かな雨に濡れた花弁をそっと手で包んだ。
しばらくしてから部屋に戻り、窓から差し込む光の束で微笑む結花の横に桜の切り花を置き、そっと呟いた。
「 おかえり 」
何度でも迎えるよ。君がいない春を。
本作はS a r a .様主催のコンテスト『春の始まり』の応募作品です。いつもは当サイトにて亀みたいなスピードでひっそりとシリーズ物を書いている私ですが、たまにはシリーズ物から離れて短編を書きたいと思っていた際に当コンテストを見つけ、応募させていただきました。丁度テーマも決まりきっていたので一気に書き上げました。今作は元々私が小学三年生の時に書いていた小説のリメイク版なのですが、何か琴線に触れるものがあれば幸いです。今作の登場人物の主人公君と結花なのですが、あまりセリフもないし、前後の話もあまりないのでもし時間に余裕があれば前日譚など書きたいなと思っています。それでは、またどこかで。