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ケッタイキッカイ曲パロ
雪城渚
篠宮菊花という人間は、どこまでも身勝手な猫のような奴だった。
170センチもある長身に、透き通るような白髪のロングヘア。街を歩けば誰もが振り返るような美貌を持ちながら、中身は驚くほど子供っぽくて、いつも私に甘えてばかり。
「ねえ未亜、今日の晩ご飯は何? 僕、ハンバーグがいいな。未亜の作るやつ」
「昨日も言ったでしょ。あんた、好き嫌い激しすぎるのよ。少しは野菜も食べなさい」
「えー、未亜がしっかり者だから、僕はつい甘えちゃうんだよ」
そう言ってクスクスと笑う彼女の顔は、少しだけ白すぎて、まるで陶器のようだった。
けれど、それが「病」のせいだなんて、私は微塵も思っていなかったのだ。菊花はいつも通り、猫のように気まぐれに笑い、私の服の裾を掴んで歩いていたから。
彼女は自分の死期を悟っていたらしい。
後から聞いた話では、余命宣告を受けてからかなりの時間が経っていたという。
それなのに、菊花は私に一言も言わなかった。
それどころか、死ぬ一週間前まで「来年の春は、一緒にあの公園に桜を見に行こうね」なんて、叶うはずのない約束を、さも楽しみそうに並べていた。
――そして、ある朝。
菊花は、眠るようにして逝ってしまった。
病院のベッドではなく、私たちが一緒に住んでいた部屋の、彼女のベッドで。
「……バカじゃないの」
葬儀が終わった後の、静まり返った部屋。
私は、菊花が脱ぎっぱなしにしていたカーディガンを抱きしめて、独り言をこぼした。
泣いて、泣いて、もう涙も出ないと思っていたのに、視界はすぐに滲んでしまう。
「何が『来年』よ。何が『甘えちゃう』よ。……結局、一番大事な時に一人で勝手にいなくなるなんて。あんた、本当に最低」
恨み言を並べても、返事はない。
私は幽霊なんて信じない。死んだら無だ。記憶はただの電気信号。
そう自分に言い聞かせ、彼女の遺影をわざと裏返して、乱雑に積まれた段ボールに手をかけた時だった。
「なんてこったい…()未亜、僕の遺影を裏返すのは、ちょっとひどくないかい?w」
心臓が跳ねた。
聞き間違えるはずのない、あの、少し抜けたような、それでいて鈴を転がすような声。
恐る恐る振り返ると、そこには。
生前よりもさらに透明感を増した、白銀の髪を揺らす菊花が、窓際に腰掛けていた。
「……え?」
喉の奥で、短い悲鳴が引き攣った。
窓際に座る彼女の輪郭は、午後の日差しに溶けそうなほど淡い。生前よりもずっと「白」が強調された姿は、まるで出来の悪いホログラムのようだった。
「やあ、未亜。そんなに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。あ、今の僕は鉄砲で撃たれても穴は空かないよ。元から幽霊だからね!」
菊花はケラケラと笑い、ベッドから身を乗り出して僕の顔を覗き込んできた。
その瞳は、確かに菊花のものだ。けれど、どこか焦点が合っていないような、虚ろな輝きを帯びている。
「……幻覚。そうよ、疲れすぎてるんだわ、私」
私はあえて視線を逸らし、段ボール箱に菊花の私物を詰め込み始めた。手が震えているのを隠すために、乱暴に。
「ひどいなあ。本物の菊花ちゃんだよ? ほら、触ってみる?」
菊花が私の頬に手を伸ばす。けれど、その指先が肌に触れる直前、すうっと空気を撫でるように通り抜けた。
触れられない。確かな温度があったはずのその手は、今はもう、ただの冷たい空気の揺らぎでしかない。
「……幽霊なんて信じないって言ったでしょ」
私は唇を噛み締め、彼女を睨みつけた。
「あんた、死んだじゃない。勝手にいなくなったじゃない。今さら何の用よ。恨み言の一つも言わせてくれないわけ?」
「恨み言? あはは、そうだね。僕、何か悪いことしたっけ?」
菊花は首を傾げた。その仕草は猫そのものだが、どこか違和感がある。
「……僕、どうして死んだんだっけ。なんだか、すごく眠くて、気づいたらふわふわ浮いてたんだ。未亜の泣き顔が、上から見ると面白くてさ」
「……笑えない。全然、笑えないわよ」
自分の死因すら曖昧なまま、ヘラヘラと笑う彼女。
私は、彼女が隠し通した「病」のことを思い出し、胸が締め付けられた。あんなに苦しかったはずなのに、彼女はそれを「忘れた」というのか。それとも、忘れた振りをしているのか。
「ねえ、未亜。そんな怖い顔しないでよ」
菊花は僕の背中に回るようにして、宙に浮いたまま抱きつく動作をした。
「僕、思い出せないことがいっぱいあるんだ。自分の名前も、さっき未亜が呼んでくれるまで忘れてた。……でもね、未亜の隣にいたいっていうことだけは、ちゃんと覚えてるよ」
その言葉は、生前の彼女がよく言っていた甘え文句そのものだった。
けれど、今の彼女の身体は、窓から差し込む光に透けて、今にも消えてしまいそうで――。
「……バカ。本当に、大バカ。……消えるなら、今のうちに消えなさいよ」
私は、掴むことのできない彼女の腕を振り払うように、立ち上がった。
これが幽霊なら。
こんなに悲しい再会なら、いっそ、ただの幻覚であってほしかった。
「あはは、未亜ってば本当に怒りっぽいなあ」
菊花は私の怒鳴り声なんてどこ吹く風で、ふわりと宙を泳いで私の正面に回り込んだ。
長い白髪が、重力を無視してクラゲの足のようにゆらゆらと空間を舞う。
ふと、彼女の笑い声が止まった。
「ねえ、未亜」
至近距離。
透き通った瞳が、真っ直ぐに私の視線を射抜く。
さっきまでの猫のような愛嬌は消え、そこにはただ、底の知れない「死」の深淵だけが広がっていた。
「そんなに僕がいなくて寂しいなら――お命、頂戴?」
無表情だった。
冗談にしてはあまりに冷たく、本気にしてはあまりに静かな問いかけ。
彼女の指先が、私の喉仏のあたりを、形だけなぞるように滑った。
「……っ」
反射的に体が震えた。
幽霊を信じない。非科学的なことは認めない。
そう強がっていた私の頭の中に、一瞬だけ、真っ白な「あちら側」の景色が過る。
菊花と一緒に、どこまでも冷たくて、何も考えなくていい、静かな場所へ。
「……いいよ」
気づけば、掠れた声でそう答えていた。
私は、菊花がいない世界を生きるほど、強くなんてなかった。
彼女のいない明日に価値なんて見出せなかった。
「……連れてってよ。あんたがいない部屋を片付けるのは、もう飽きたわ」
その瞬間。
菊花の瞳が、見たこともないほど激しく揺れた。
無表情の仮面がパリンと音を立てて割れる。
「……未亜、バカじゃないの!? なんでそこで頷くんだよ!」
さっきまでの無機質な表情はどこへやら。菊花は半泣きで、実体のない両手を私の目の前で激しく振り回した。170センチの長身を折るようにして、必死に私を「生」の方へと押し戻そうとしている。
「冗談だよ、今のは『キッカイ』なブラックジョーク! 未亜はしっかり者なんだから、そこで僕をこっ酷く叱ってくれないと困るじゃないか!」
「……叱ってるわよ、ずっと。あんたが勝手に死んだ時から、ずっと怒ってる」
私は震える声で返した。視界が熱い。
菊花の輪郭は、感情が高ぶるたびにノイズが走ったように薄くなる。白銀の長い髪が、夜の闇に溶け始めていた。
「怒っていいよ、恨んでいいから……こっちに来るなんて言わないで。未亜には、まだ明日があるんだから。僕みたいに、昨日しかない存在になっちゃダメだよ」
菊花は縋るように私の頬に手を伸ばした。けれど、その指はやはり私の肌をすり抜ける。
彼女は絶望したように自らの手を見つめ、ふと、動きを止めた。
「……あれ? 僕は、どうして……」
その瞳から、一瞬だけ光が消える。
「未亜。僕、今、何を言おうとしたんだっけ。……そうだ、僕の好きな、あの……茶色くて丸い食べ物。未亜がよく作ってくれた……ええと、名前が、出てこないんだ」
「……ハンバーグでしょ。あんた、昨日も食べたいって言ってたじゃない」
「……そう、それ。ハンバーグだ」
菊花は力なく笑った。その笑顔が、あまりに頼りない。
彼女の記憶が、指の間からこぼれる砂のように消えていくのが分かった。自分の死因を忘れ、好きだった食べ物を忘れ――そうやって少しずつ「篠宮菊花」という形が崩れていく。
「ねえ、未亜。僕が全部忘れちゃっても……未亜は僕のこと、忘れないでいてくれる?」
猫のような気まぐれな甘えじゃない。それは、消えゆく魂が上げた、最初で最後の悲鳴のように聞こえた。
「……忘れたっていいじゃない。忘れても、どうせ来世も一緒なんだから」
泣き笑いのような声で、私は透き通った彼女を見つめた。
幽霊なんて信じない。死んだら終わり。そう頑なに自分に言い聞かせてきたはずなのに、目の前で消えかけているこの「身勝手な猫」を繋ぎ止めるためなら、どんな非科学的な言葉だって縋りつきたかった。
「来世……?」
菊花は、壊れた機械のようにその言葉を繰り返した。
白銀の長い髪が、夜風もないのにふわふわと舞い上がる。彼女の輪郭はもう、向こう側の景色がはっきりと透けて見えるほどに希薄だ。
「そうよ。あんたが全部忘れても、私が全部覚えてる。あんたがどこで生まれても、私が絶対に見つけ出して、またハンバーグ食べさせて、また野菜を食べなさいって怒ってあげる。だから……」
だから、そんなに心細そうな顔をしないで。
自分の形が崩れていくのを、そんなに怖がらないで。
「……あはは。未亜は、本当にしっかり者だねえ」
菊花が、ふっと力を抜いたように笑った。
その笑顔は、生前の病室で見せた、あの「死期を隠して笑っていた時」の顔にそっくりだった。
「来世も一緒、か。……なんてこったい。それじゃあ、僕、また未亜に甘えなきゃいけないじゃないか。忙しくなりそうだ」
彼女の手が、今度は迷わずに私の頬へと伸びた。
触れられないはずの指先から、一瞬だけ、冬の終わりの陽だまりのような微かな温もりを感じた気がした。
「約束だよ、未亜。僕が僕じゃなくなっても、僕の欠片を見つけてね」
彼女の姿が、光の粒子となって弾ける。
170センチの長身も、自慢だった白い髪も、悪戯っぽく細められる猫のような瞳も。
『キッカイケッタイ』な夜の終わりに、すべてが溶けて、消えていく。
「……当たり前でしょ、大バカ」
誰もいなくなった部屋で、私は裏返していた遺影を、ゆっくりと元に戻した。
写真の中の菊花は、相変わらず何もかもお見通しだと言いたげに、不敵に、けれど愛おしそうに笑っている。
「来世で会ったら、今度こそ全部、白状させてやるんだから」
私は溢れ出した涙を拭い、彼女が脱ぎ捨てていったカーディガンをぎゅっと抱きしめた。
明日になれば、また「幽霊なんて信じない」と自分に言い聞かせる日常が始まる。
けれど、私の心には、彼女が残した「忘れられた記憶」の欠片が、確かに、熱を持って居座り続けていた。
あれから、どれほどの春を見送っただろう。
私は相変わらず「しっかり者」という仮面を被り、彼女のいない世界を淡々と、けれど懸命に生きてきた。幽霊なんて信じない、死んだら終わり。そう自分に言い聞かせながら、心の奥底では、あの日交わした「来世」という不確かな約束だけを、唯一の酸素にして呼吸を繋いできた。
街路樹の桜が、あの日見た病室の景色を塗りつぶすように咲き乱れる午後。
駅へと向かう人混みの中で、私は「その人」とすれ違った。
「――っ」
心臓が、肋骨の内側を叩き割らんばかりに跳ねた。
170センチはあろうかという長身。春の陽光に透けて、白銀にさえ見える色素の薄いロングヘア。
私は、雷に打たれたように足を止めた。
振り返る。視界が、一瞬で熱い膜に覆われる。
「……菊花?」
震える声で、その名を呼んだ。
前方を歩いていたその人が、ゆっくりと足を止め、肩を揺らして振り返る。
そこには、あの猫のような瞳があった。
生前よりも少しだけ幼く、けれど、あの不謹慎で愛おしい輝きを宿した瞳。
彼女は私を見た瞬間、バッと弾かれたように目を見開いた。
まるで、忘れていたはずの膨大な記憶が、濁流となって脳内に流れ込んできたかのような、そんな衝撃が彼女の表情を駆け抜ける。
彼女の手から、持っていたはずの荷物が力なくこぼれ落ちた。
「え……? あ、れ……」
彼女は震える指先を自分の頬に当て、そこを伝う熱い雫に、自分自身で驚いたように目を見開いたままでいる。
記憶は、まだ霧の中かもしれない。名前だって、思い出せていないかもしれない。
それでも、魂が、細胞が、彼女のすべてが「私」という存在に反応して、激しく震えていた。
「……あ、れ。どっかであったり、だったり、あったんでしたっけ」
掠れた声で、彼女が紡いだ。
変なリズムの、けれど、涙でぐちゃぐちゃになった必死の問いかけ。
「あったわよ……! あったに決まってるでしょ、この大バカ!」
私はもう、しっかり者ではいられなかった。
人目も憚らず駆け寄り、今度はすり抜けることのない、確かな体温を持った彼女の細い肩を、壊れるほどの力で抱きしめた。
「……未亜、だ」
彼女の口から、私の名前が零れる。
記憶の欠片がパズルのように噛み合い、彼女の瞳に、あの日失ったはずの光が、何倍もの強さになって戻ってきた。
「未亜……未亜! ごめんね、待たせちゃったね。僕、また君に甘えに来たよ!」
今度は、消えたりしない。
今度は、独りで行かせたりしない。
「……未亜、苦しいよ。君、昔より力が強くなってないかい?」
腕の中で、菊花がクスクスと笑った。その振動が、私の胸にダイレクトに伝わってくる。
幽霊だった頃の、あの透き通るような冷たさじゃない。
ドクドクと脈打つ心臓の音。温かい皮膚の質感。
私は彼女の胸に顔を埋めたまま、鼻声を上げた。
「うるさい。……あんたが、何年も、何十年も待たせるからでしょ。筋肉くらいつくわよ」
「あはは、そうだね。なんてこったい、僕の可愛い未亜が武闘派になっちゃった」
彼女は私の背中をポンポンと叩きながら、ふと、地面に落ちた自分の荷物に目をやった。
そこには、スーパーの袋から転がり出た合挽き肉のパックと、玉ねぎが転がっている。
「見てよ未亜。僕、無意識にこれ買ってたんだ。……どうしてか分からなかったけど、今なら分かる。僕、これを作ってほしかったんだね」
私は涙を拭い、地面に転がる「ハンバーグの材料」を見て、呆れたように笑った。
来世になっても、記憶が混濁していても、この女の食欲と私への依存心だけは、死神だって奪えなかったらしい。
「……信じられない。再会の一言目がそれ? 本当、あんたって救いようのないバカね」
「バカって言わないでよ。……ねえ、未亜。僕、今度はちゃんと『ただいま』って言えてるかな」
菊花が私の顔を覗き込む。
その瞳には、かつての「死期を隠した悲しい嘘」の色は微塵もなかった。
あるのは、ただ純粋に、私と一緒にいられることを喜ぶ、子供のような輝きだけ。
「……おかえり。遅いのよ、菊花」
私は彼女の手を、今度は絶対に離さないように強く握りしめた。
私たちの物語は、一度は「死」という不条理な幕切れを迎えた。
けれど、ここはアンコールのステージだ。
これから始まる新しい日々は、病室の白い天井の下じゃない。
二人の笑い声と、ハンバーグの焼ける匂いに満ちた、騒がしいキッチンから始まるのだ。
「さあ、帰るわよ。あんたのせいで夕飯の支度が遅れたんだから、今日は手伝いなさい」
「えー! 僕、食べる専門がいいなー!」
文句を言いながらも、菊花は嬉しそうに私の後をついてくる。
「なんていい天気。お散歩でも行こうじゃないか」
菊花は、かつての幽霊だった頃の透き通るような白髪を春風になびかせ、眩しそうに目を細めて笑った。
170センチの長身が、一歩、また一歩と軽やかにアスファルトを蹴る。その足取りは、病室に閉じ込められていたあの頃の重苦しさを、微塵も感じさせない。
「ちょっと、荷物。自分で持ちなさいよ」
私は呆れながらも、彼女が落としたスーパーの袋を拾い上げ、隣に並んだ。
15公分の身長差。見上げる視線の先には、あの日、消えてしまいそうだった「死」の影なんてどこにもない。ただ、春の陽光を反射する、生命力に満ちた彼女の横顔があるだけだ。
「いいじゃないか、未亜。今日は記念すべき『再会の日』だよ? 僕たち、あんなにキッカイな別れ方をしたんだから、これくらいのご褒美はあってもバチは当たらないさ」
菊花は私の腕に、猫のようにスリ寄って甘えてくる。
かつてはすり抜けてしまったその感触が、今は確かな重みと、服を通しても伝わる体温となって私に届く。
「……本当、調子いいんだから」
私はわざとらしくため息をついたけれど、握りしめた彼女の手を離すつもりなんて、毛頭なかった。
空はどこまでも青く、高く。
あの日、彼女が私を「こちら側」に引き留めるために必死で守ろうとしたこの世界は、皮肉なほどに美しく輝いている。
「ねえ、あそこの公園。桜が綺麗だよ。行ってみよう?」
菊花が指差したのは、生前、彼女が「来年見に行こう」と嘘をついてまで約束した、あの場所だった。
今度は嘘じゃない。
一歩踏み出すたびに、過去の悲しみや恨み言が、足元の影に溶けて消えていく。
「……ええ。行きましょう。あんたが飽きるまで、付き合ってあげるわよ」
ケッタイな再会を経て、私たちはまた、同じ歩幅で歩き出す。
なんていい天気。
お散歩の続きは、きっと、一生かかっても歩ききれないほど、長く、賑やかで、幸せなものになるに違いない。