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守れぬ者
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ずっと気づいていた。蛇使い座に巣食うものによって自我を失っているということも,吾輩が愛した蛇使い座は心の奥底に眠っていることも。
愛人。愛している相手,特別に深い関係にある異性,などと呼ばれるものである。吾輩にも,|“それ”《愛人》がいる。名を,蛇使い座。今は男でも女でもないが故に,異性かどうかは定かではない。が,そのことはどうでも良い。吾輩は異性としてどうかということではなく,彼奴そのものが好きなのだ。それ以外には何もない。むしろ,蛇使い座以外に吾輩に必要なものなどない。蛇使い座がいればそれで良いし,蛇使い座が望むものなら何であろうとも手助けする。そうあの時誓った。許婚となった,あの日。
吾輩は幼き頃より病弱であった。何度冬眠のまま起きず永久に眠りかけたことか。その度に看病をしてくれていたのが,お前だったな。迷惑だとは一度も言わず,吾輩の病を診続ける。他の星の民達の病も絶えず診ていた。それが己の夢なのだと語りながら,多くの者達の命を救っていた。その中には当然,吾輩もいる。
よく言っていた言葉がある。
「誰も苦しまない,みんな平等で,みんな幸せ。そんな世界であればいいのになって。」
と。
吾輩はこの世界のことなど,どうでも良かった。蛇使い座が存在している世界ならば,たとえ争いが絶えぬとも,平穏な世界であろうとも。そう言うとお前は可笑しいものを聞いたように笑った。吾輩は何が可笑しいのかわからなかったが,お前がそう楽しそうに笑う姿を見られたことに,少し喜びを感じていた。そうして吾輩が蛇使い座に向ける気持ちを理解していった。
そんな微笑ましき日々は一瞬の出来事に終止符を打たれた。突如として世界中で致死率の極めて高い病が流行した。多くの者が苦しみ死んだ。蛇使い座はその対応に追われた。吾輩も蛇使い座も,死力を尽くして民を救おうとした。だがそれら全てが無に返すように,運び込まれてくる者達は皆立て続けに死んで行った。毎日,毎夜,毎朝,病人が運ばれてきては死ぬ。死んでは火葬し埋葬する。祈り,労り,そして哀しんだ。蛇使い座も吾輩も,段々救いの手を差し伸べきれなくなった。時間も忘れ,無我夢中で看病をして回る日々。ある日ふと,日付を見た。その日はちょうど,蛇使い座が12星座に加わり13星座となるはずの日であった。蛇使い座は名誉あるその式よりも,救い切れるかもわからぬ人々に捧げることを選んだ。
結局,大勢が死んだ。病は瞬く間に広がり,世界中がこの病に侵された。そして,吾輩もまた例外ではなかった。
恐ろしいほどに進行が早く,症状が出ておよそ3日ほどで全身が麻痺したように動かなくなった。蛇使い座は恐らく今まで以上の力で病を治そうと奮闘していた。その姿もとても愛おしかったが,張り詰めた表情をしているのは胸が痛くなった。そして5日ほどで突然身体は羽のように軽くなった。もちろん喜んだ。治ったと思ったのだから。だが,そうではないとすぐに理解した。吾輩の視線の先で,吾輩の身体が横たわっていた。そのそばで,蛇使い座は下を向き蹲っていた。どれだけ声をかけようとも,奴から返事はなかった。そしてそれは奴も然りだった。お互いが,どれだけ声をかけようとも,相手からの返答はなかった。吾輩は己の無力さを痛感した。そして同時に,病弱であった己の身体を心底恨んだ。いつまでもそばにいると約束したはずであったのに。吾輩の意識も遠のいていた。せめて見守りたいという願いすらも神は聞き入れてくれないらしい…………。
吾輩は目を覚ました。痛みはなかった。が,違和感はあった。起き上がるとそこは見慣れた一室だった。吾輩が死ぬその日まで使っていた病室だ。日付はあの日からはしばらく経っていた。確かに吾輩はあの日死んだ。実感したのだ。その後の記憶はないが,確かに死んだ。では,何故?
疑問符を浮かべるや否や,部屋の一角にある扉が開いた。視線を移すと,その動作の主は蛇使い座だった。蛇使い座は起き上がった吾輩の顔を見ると,嬉しそうに駆け寄ってきた。その笑顔を見て,吾輩からも思わず笑顔が溢れた。久々の談笑だった。…………だが,何処か可笑しい。何故吾輩が再び現世へ戻ってきているのか。何故お前は時々冷笑を浮かべているのか。吾輩がその疑問を投げかけるのを遮るように,蛇使い座が言った。
「良かった。蘇生,ちゃんと成功したみたいで。」
蘇生。再び生命を取り戻すこと。人智を超えた行為であるため,この世では本来禁忌であるもの。蛇使い座はが何故その禁忌の名を…?お前は禁忌に手を染めたというのか…?
吾輩は尋ねようとした。だが一文字目を言いかけたところで飲み込んだ。再び蛇使い座とこうして話すことができることが何より嬉しかったからだ。この喜びに水を刺したくなかった。
それからの奴はより一層可笑しかった。不老不死の身体を手に入れ,死者蘇生も可能にし,自らあらゆる病にかかり特効薬を生み出す。……到底常人にはすることのできないことばかり。それを全て誇りに思っていた。自慢げに,吾輩に話してきた。何があっても禁忌に触れることはなかったお前が,一体どうして…。
それ以上に理解し難かったことがある。吾輩が許婚であることを覚えていないということだ。あの日共に笑った時間は全て無に返った。虚しかった。だが,怒りはなかった。たとえ蛇使い座が吾輩を愛人として見ていなくとも,吾輩だけは蛇使い座を思い続ければ良い。お前が幸せなら吾輩はそれで良いとあの日誓った。その幸せにたとえ吾輩がおらずとも,幸せであれば,それで…………。
ある日,蛇使い座は12星座を殲滅すると言い出した。どうやらあの日以来,12星座から軽蔑と好奇の目を向けられているそうだ。名誉ある式に参加しなかった事を怒っているのだろうか。それに対して,蛇使い座は抑えきれぬほどの殺意と憎悪を抱いていた。確かに,状況も知らず身勝手な奴らだとは思うが,何故そこまでの殺意と憎悪を抱くのかは理解できなかった。ここ最近,毒学や12星座の調査に没頭していたことの辻褄が合った。
だが吾輩は無謀だと思った。我々にはあまりにも力不足である。もちろんそう伝えようとした。だが,
「蛇ちゃんがいてくれると心強いな」
久しぶりの笑顔だった。吾輩は,首を縦に振るしかなかった。
結局,この計画は失敗に終わった。奇襲した星座が運悪く4人も集まっており,あえなく返り討ちに遭った。蛇使い座はより一層警戒される対象となった。
だがその歴史を吾輩が塗り替えた。このまま蛇使い座が改心すれば,これからは他の星座達と平和に暮らせると思ったからだ。禁忌に手を染めたこともきっと話せば理解して貰えるだろう。幸せを追求する権利がお前にはある,吾輩はそう信じた。
信じたが,蛇使い座はそれを使って再び12星座への復讐を企てた。もうそこに,吾輩の知る蛇使い座はいなかった。負の感情に蝕まれ,お前が望んでいた世界のことも,吾輩の姿も,何も見えていなかった。だが,吾輩はそれでも,いつか昔のように心優しく人のために尽くすような者に戻ると信じた。吾輩はその日まで,蛇使い座のそばにいると,そう誓った。
ずっと気づいていた。蛇使い座に巣食うものによって自我を失っているということも,吾輩が愛した蛇使い座は心の奥底に眠っていることも。だが吾輩一人では助けられる確信がなかった。蛇遣い座の機嫌を損ねれば,それだけできっとそばにいられなくなる…それがただ途方もなく怖かった。
吾輩は,臆病者だ。
蛇使い座を正気に戻せた後,吾輩は長い眠りについている。いや,実際には吾輩は周りが見えている。身体を動かすことができないだけなのだ。だから,今蛇使い座が孤独に押しつぶされて涙を零しているのも,分かっている。世界が違えば,お前は皆から心から愛されただろうか。選択が違えば,お前も皆と心から笑い合えただろうか。
「僕も,みんなと一緒になれたらなぁ……」
蛇使い座の小さなぼやき声と想いが溢れて出た涙が星が瞬く美しい夜の世界へ溶けて消えていった。
許されざることをしてしまったのは吾輩の責任だ。もっと早く,お前を正気に戻そうと行動していれば,お前も,誰も,傷つくことはなかった。
恋は盲目とは,よく言ったものだ。