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『夢渡りの灯』
「名前を思い出せないんだ」
森の奥深く、月明かりの下で男は呟いた。彼の記憶は空っぽだった。気がついたときには、この幻想のような森の中で目を覚ましていた。
森は不思議に静かで、空気はひんやりとしていた。周囲には巨大なキノコや光る蝶が舞い、木々の間から星が覗いている。
そんな男の前に、ひとりの少女が現れた。
「ようこそ、忘れられた者の森へ」
少女は白いローブに身を包み、胸元にはガラスの瓶を提げていた。その中には、淡い光の粒がいくつも漂っていた。
「君は……誰だ?」
「私はリリィ。夢を集める者よ」
「夢を……?」
リリィは頷いた。
「この森には、名前や記憶を失った人々が迷い込む。そして、夢を思い出したとき、元の世界に帰ることができるの」
「夢……俺の夢は……」
男は額に手を当てた。何も浮かばない。だが、心のどこかで、何か大切なものを失くした気がしていた。
「名前も顔も忘れても、心に灯る夢だけは、消えないのよ」
リリィは瓶の中の光の粒を見つめた。
「これらは、かつてこの森に来た人々の夢。彼らは夢を取り戻して、世界に帰っていったわ」
男は瓶を覗き込んだ。そこには、少年が空を飛ぶ夢、老婦人が猫と笑い合う夢、兵士が家族の元へ帰る夢――無数の光があった。
「君は、その夢を集めている?」
「ええ。森に灯りをともすために」
リリィは指を鳴らすと、空に舞う蝶のような光を呼び寄せた。光は彼女の周囲に集まり、幻想的な輝きを放った。
「じゃあ……俺の夢は?」
男が問うと、リリィは静かに首を横に振った。
「まだ見つかっていないの。だから、あなたはここにいる」
「どうすれば、見つかる?」
リリィはそっと微笑んだ。
「あなたの心の奥に潜れば、きっとね」
その夜、男はリリィに案内され、森の奥にある「記憶の湖」へ向かった。水面は鏡のように静かで、覗き込めば心の断片が映るという。
男が湖を覗くと、そこにひとつの光景が浮かんだ。
小さな村、花の咲く庭、女性の笑顔。
そして、彼が彼女と手を取り合っている姿。
「……ああ……」
記憶が、心に流れ込む。名前はルーク。かつて騎士であり、戦争から帰ってきたばかりだった。
だが、帰還の夜、村は黒い獣に襲われ、彼は彼女を守ろうとして、命を落とした。
「そうか……俺は、死んだのか」
リリィはそっと彼の隣に立った。
「でも、夢はまだ残っていたのでしょう」
「……ああ。彼女と、もう一度笑いたい。あの庭で、また一緒に花を育てたい。それが……俺の夢だった」
リリィは頷いた。
「それで十分よ」
彼女が手を差し出すと、男の胸から小さな光が生まれ、空に舞い上がった。それは瓶の中へと吸い込まれ、静かに輝いた。
「君は……何者なんだ?」
ルークが問いかけると、リリィは少し寂しそうに笑った。
「私はね、この森に取り残された少女。自分の夢を忘れてしまって、帰る場所もない」
「じゃあ……なぜ夢を集める?」
「みんなの夢を灯せば、私の夢も、思い出せる気がするから」
ルークは何かを言おうとしたが、体が光に包まれていく。彼は静かに目を閉じた。
リリィは瓶を抱え、森の入り口に立っていた。
瓶の中で、ルークの夢がやさしく光っていた。彼の夢は、この森にひとつの灯りをともした。
リリィはそっとつぶやいた。
「あなたの夢、たしかに預かったわ。いつか私も、自分の夢を見つけられますように」
そして少女はまた、新たな夢を探して、光の蝶を追って森の奥へと歩きだした。
――その背に、誰も気づかぬほど小さな夢の欠片が灯っていた。
ここまで『夢渡りの灯』をお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、「夢」と「記憶」、そして「忘れること」の意味について考えながら書きました。
私たちは日々、たくさんのことを覚え、たくさんのことを忘れていきます。でも、心の奥底にある「大切なもの」は、形を変えてもどこかに残り続けるのかもしれません。
夢を忘れた少女と、夢を思い出した男。
ふたりの出会いは一夜の出来事でしたが、ほんのひとつの灯りが、誰かの闇を照らすことがある――そんな願いを込めました。
もし、皆さんの中にも、まだ思い出せない夢があるのなら、どうか焦らず、大切にしてください。
きっとその夢は、皆さんの中で灯をともす時を、静かに待っているはずです。
また、物語の森でお会いできますように。
――心を込めて。