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茜色のプラットホーム
改札口を抜けると、いつものように機械的な電子音が響いた。
夕方のラッシュが始まる少し前、この駅のホームはどこか所在なさげな空気に包まれている。
私は歩幅を緩め、カバンのストラップを強く握りしめた。
電光掲示板に表示された「快速 16時15分」の文字が、私の胸を静かに急かす。
あの日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
高校二年の秋、私は美術部の居残り練習で毎日遅くなっていた。
誰もいない教室で油絵の具の匂いに塗れている時間が好きだった。けれど、本当の理由は別にあった。
「また遅くまでやってるな」
ガラリと扉を開けて入ってきたのは、サッカー部の拓海だった。
彼はいつも部活の朝練や居残りで、私と似たような時間に学校に残っていた。
拓海は私の隣の席に腰掛け、窓の外を眺める。
夕日が彼の横顔をオレンジ色に染めていた。
私たちは特に大した会話を交わすわけではなかった。
昨日見たテレビの話、迫る定期テストの憂鬱、そんな他愛のないことばかりだった。
それでも、私にとってその時間は、一日のうちで最も特別なものになっていた。
拓海の言葉には、いつも不思議な温度があった。
ぶっきらぼうだけど優しくて、私が上手く描けずに悩んでいると、「俺にはよく分かんねえけど、いい色だと思うよ」と笑ってくれた。
その笑顔を見るたびに、胸の奥がキュンと痛んだ。
これが恋だと自覚するのに、時間はかからなかった。
けれど、私はその気持ちに蓋をした。私たちは「ただの居残り仲間」で、それ以上の関係になるのが怖かったからだ。
もし想いを伝えて、この心地いい距離感が壊れてしまったら、私は明日からどうやって彼と話せばいいのだろう。
そう思うと、言葉はいつも喉の奥で消えていった。
季節は巡り、冬が来て、そして春が訪れた。
私たちは三年生になり、それぞれの進路を本格的に考え始めなければならない時期になった。
拓海が東京の大学に進学するかもしれない、と風の噂で聞いたのは、初夏の頃だった。
地元を離れ、遠くの街へ行ってしまう。
その事実を知ったとき、私の世界から一瞬で色が失われたような気がした。
「なぁ、俺、東京の大学に行くことにした」
ある日の放課後、拓海は自らの口でそれを告げた。
「そっか、すごいね。応援してる」
私は精いっぱいの笑顔を作って答えた。
心の中では「行かないで」と叫んでいたのに、口から出たのは教科書通りの祝福の言葉だけだった。
それからの時間は、坂道を転げ落ちるように早く過ぎていった。
卒業式の日、校庭は涙と笑顔で溢れていた。
私は拓海を探したけれど、彼はたくさんの友人に囲まれていて、遠くから手を振ることしかできなかった。
そして今日、三月二十五日。
拓海が東京へ旅立つ日だ。
彼は「見送りなんて恥ずかしいから来るなよ」と言っていた。
だから私は、彼が乗るであろう列車の時間だけを調べて、こうして一人でホームに立っている。
遠くから、ガタゴトと線路を鳴らす音が聞こえてきた。
アナウンスが流れ、白い線の内側まで下がるように促される。
入線してきた列車の窓を、一つずつ目で追っていく。
乗客の姿が流れるように通り過ぎ、列車は静かに停車した。
プシューという音とともにドアが開く。
見覚えのある、少し大きめのリュックサックを背負った後ろ姿が、車内へと入っていくのが見えた。
拓海だ。
彼は窓側の席に座り、小さく息を吐いた。
そして、何気なく窓の外へ目を向けた。
一瞬、彼と目が合ったような気がした。
私は反射的に、ホームの柱の影に身を隠してしまった。
心臓が早鐘を打つ。
どうして隠れてしまったのだろう。
最後なのに、ちゃんと顔を見て「バイバイ」って言いたかったのに。
自分の意気地なさへの悔し涙が、じわりと視界をにじませる。
私は深呼吸をして、もう一度柱の影から顔を出した。
拓海は窓の外を、じっと見つめていた。
まるで、誰かを探しているかのように。
彼の表情は、いつになく真剣で、どこか寂しげに見えた。
発車のベルがホームに鳴り響いた。
このベルが鳴り止んだら、彼は本当に行ってしまう。
私はカバンから、一冊の小さなスケッチブックを取り出した。
そこには、あの放課後の教室で、私がこっそり描いていた拓海の横顔があった。
夕日に照らされ、少し眩しそうに目を細めている彼の姿。
私はそのページを破り取り、小さく折りたたんでポケットに押し込んだ。
伝えるべきだった。
好きだと、あなたと同じ時間を過ごせて幸せだったと、一言だけでも言えばよかった。
ドアが閉まり、列車がゆっくりと動き出す。
私はたまらなくなって、列車の進行方向に向けて歩き出した。
歩幅はすぐに大きくなり、やがて走り出していた。
拓海の座る窓が、私の横を通り過ぎていく。
私は大きく手を振った。気がついて、お願い、気がついて。
拓海がハッとしたようにこちらを見た。
彼の目が大きく見開かれる。
彼は窓に手を当て、何かを叫ぼうとした。
けれど、列車のスピードはどんどん増していく。
彼の唇が「ありがとう」と動いたように見えた。
次の瞬間、列車は夕闇の向こうへと吸い込まれ、私の目の前には誰もいない線路だけが残された。
ホームに冷たい風が吹き抜ける。
私はその場に立ち尽くし、溢れてくる涙を拭おうともしなかった。
ポケットの中の紙切れが、私の指先に触れる。
言えなかった言葉は、もう彼には届かない。けれど、胸の中に残ったこの切ない痛みは、確かに私が彼を深く
愛していた証拠だった。
空は見事な茜色に染まっていた。
私はゆっくりと涙を拭い、誰もいない線路に向かって、小さく「さようなら」と呟いた。
新しい季節が、もうすぐそこまで来ていた。