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第五話「協力要請」
「またお買い物帰りですか?」
「は、はい」
前に会った時とさほど変わっていない、彼の礼儀正しそうな笑顔が眩しい。こんなに綺麗な笑顔、私にはできないなと、見ていて思った。個人的に、自分の笑顔は好きじゃない。どこか歪んだように見えるから。
「……荷物、重そうですね。大丈夫ですか?」
信介さんは人をよく見ている好青年でもあるので、私が今持っている荷物が重そうな事を、すぐに察知してくれた。この観察眼は、一体どのように人生を過ごしていれば得られるのだろうか。ぜひご教授願いたい程だ。
「あぁ、大丈夫です。これくらい――」
これくらい平気です、そう私が言いかけた時だった。私は失念していた。自分が、右足を怪我していた事を。そのせいで、今日は足がよくよろつくのだという事を。
私は前の方へと、盛大に転んだ。顔面が床と密着する前に咄嗟に手をついたので、顔は守られた。しかし、手と足には痛みの感触が伝う。
「いたっ」
思わず、うめきに近い声色が、喉の奥から飛び出てきた。
「#苗字#さん! 大丈夫ですか、怪我は?」
彼の声が聞こえる。大丈夫ですと言い放ってから、なんだか手足に生暖かい感触がして、もしや流血したかと、咄嗟に手足を確認する。どうやら軽い錯覚だったようで、本当に血が流れている訳ではないようだった。ジリジリとした痛みはまだあるが、流血も無い軽傷で済んでいた。
「ちょっと痛いけど、大丈夫ですから」
この後、時間差で血が出るかもなという事も視野に入れつつ、私はそれよりも、紙袋から飛び出して散らばった参考書達を拾おうとしていた。転んだ時に、ドサッと地面に散らばってしまったのだ。ついでに、紙袋も急な参考書達の重さに耐えきれず、中心部分が縦に破けている。これは大変だ。私は体勢を整えてから、早く拾おうとして右手を伸ばした。
「ん? これは?」
その瞬間に、信介さんも手を伸ばしたのが見えた。刹那だったので、どちらも自分の手を引っ込める事はしなかった。参考書の厚い紙の感触よりも先に、しばらく触っていない、男性の手の甲の感触がした。
「ああ、ごめんなさい」
咄嗟に離したのは、私の方だった。
「いえ、こちらこそ……」
さらっとした仕草で、数学の参考書を取る彼。それを見ながら、今さっきに伝わったたった一瞬の感覚を、私は忘れられずにいた。男性の手に触れたのは、思えば父親以来だっただろうか。その父親も、遠い昔に無くしてしまったので、最後に触ったのは、十年くらい前だっただろうか。やっぱり、男性と女性では手のディティールが全く違うのだなと、ドキドキしながらも、少し感心した。
その次に私は、参考書のページを、笑顔でペラペラと捲る信介さんを目に入れた。
「これ、高一の内容ですか。懐かしいなあ」
三年生の信介さんにとっては、こちらがちんぷんかんぷんな数学ですら懐かしい物なのか。三年生というか、この人が凄いんだろうなと思った。
勉強も、何もかもがてんでダメな私に比べて、信介さんは凄い。何でもできて、努力家で優しくて。私の周りに彼が居れば良いんだろうな、と思った。
「……あ、そうだ」
「ん? どうされました?」
いや、待て。今、私の周りに彼が居れば、と私は言った。それはおかしい。だってもう既に、信介さんは周りの人であるはずだ。なぜ、彼が他人みたいな扱いになっているのだろうか。
そうか、協力関係には居ないからか。正しくは、彼が私のやる事に協力してくれれば、だったんだろう。
であれば、協力してもらえるように、今ここでお願いすれば良いんじゃないのだろうか。私はひらめいた。どことなく今まで考えていなかった、言わば灯台下暗し。しかし、答えは至って平凡だった。
「北さん、あの、頼み事があるんですけど」
「はい」
信介さんは、きょとんとした顔で私の目を見た。私も相手の目を見て、いつもより震える唇を、恐る恐ると開いた。
「私に、勉強を教えてくれませんか!」