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人として生きるということ
故郷の味
その村は、地図の余白に押し込められた黒い染みのように存在していた。四方を切り立った山に囲まれ、外界へ通じる道は一本きり。霧が出れば、世界から完全に切り離される。私は地方紙の記者として、過疎集落の特集記事を書くためにその村を訪れた。
表向きは「伝統文化の保存」。だが本当の狙いは、古くから囁かれる噂の確認だった。
この村では、死者を土に還らない。
到着したとき、村は不自然なほど静かだった。子どもの声も、犬の鳴き声もない。ただ、軒先に吊るされた干し柿が風に揺れている。出迎えたのは、痩せた老人だった。村長だという。
「よく来なすった。今夜、ちょうど食事会がある」
その言葉に、背中を冷たい汗が伝う。
夜、私は集会所に通された。畳の中央に横たわるのは、白布に包まれた遺体。周囲を囲む村人たちの表情は、悲しみよりもどこか期待に似た色を帯びていた。読経が終わると、村長が静かに告げる。
「これより、継ぎの儀を行う」
白布が外される。青白い顔。閉じられた瞼。生前は穏やかな農夫だったという男。次の瞬間、奥の襖が開き、巨大な鉄鍋が運ばれてきた。湯気とともに立ち上る匂いは、肉と脂と、そして鉄の匂い。私は目を逸らせなかった。鍋の中に浮かぶ骨の断片。見慣れた人間の形。
「還す」
隣の初老の男が囁く。
「土にやれば腐るだろう。獣に喰われる。ならば、我らが食らい、血とする。」
「そうそう、さすれば、消えない」
椀が配られる。誰も拒まない。子どもでさえ、小さな手で箸を握る。笑い声が混じる。まるで祭りだ。私にも椀が差し出された。濁った汁の中に、白く煮えた指のようなものが沈んでいる。
「取材には、理解が必要だ」
村長の声は穏やかだが、逃げ道はない。背後の戸は閉ざされている。
震える手で箸を伸ばす。柔らかい感触。歯が触れた瞬間、ぷつりと繊維が切れる。広がる脂の甘さと、舌に残る生臭さ。吐き出したい。しかし、全員がこちらを見ている。飲み込んだ。頭が弾け飛びそうなほどに、耳鳴りがした。
”ありがとう”
はっきりとした声が、頭の内側で響く。顔を上げると、遺体の口元がわずかに動いた気がした。いや、そんなはずはない。すでに鍋の中なのだから。なのに、声は続いた。
”ここには、すべてがある”
村人たちは恍惚とした表情で汁を啜る。中には涙を流す者もいる。悲しみではない。再会の喜びのような。
「聞こえたろう」
村長が私に微笑む。
「腹に入れれば、声が届く。我らは常に共にある」
私は立ち上がろうとしたが、足が震えて動かない。腹の奥で、何かが脈打っている。心臓とは別の鼓動。内側から皮膚を撫でる感覚。
”帰ってしまうのか”
図星だ。良い言い方をすれば、"帰る"が最も合う。しかし、実際は逃げるのだ。争いを生まないように、そういう言い回しをしただけだ。
村の人々が私に視線を注ぎこんだ。その瞳は、人ならざる者のものだった。
「泊まらず、帰ってくるように言われているので」
私は、咄嗟に狼狽える。帰してくれないだろうと覚悟したが、村人らの反応は予想に反していた。
「そうですか、それは残念ですな」
先ほどの、初老の男が返す。
「明りが少ないから、車まで送っていきますよ」
それに続いて村長は立ち上がり、外套を羽織り戸を開けた。
私が車に乗り込むと、村長が窓を小突いた。
「それじゃあ」
貼り付けの笑みを浮かべ名がら軽くお辞儀をして、逃げるように車を走らせた。