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**止まったままの時計**
その名前は、
私の中で、ずっと“時間”を止めたままになっていた。
——椿谷 蓮。
電車のドアが閉まったあと、向日葵 柚子月は、しばらくその場から動けなかった。
胸の奥がずっとざわざわしていて、鼓動が不規則に跳ねていた。
(椿谷って……)
そんなに多い苗字じゃない。
けれど、確かに知ってる。もっと幼い頃に——。
放課後、自室に戻った柚子月は、押し入れの中から古い段ボールを引っ張り出した。
「子ども時代の宝箱」みたいな箱。
アルバム、手紙、絵、ビーズのネックレス、折り紙……その奥に、やけに古びた一冊のノートがあった。
——「ひまわり日記」。
小学校2年のときに書いていた、秘密の日記。
ページをめくると、ぎこちないひらがなでこんな言葉があった。
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『きょう、れんくんとあめのなかで、あじさいをみた。』
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『わたしはかぜをひいたけど、れんくんがずっとそばにいてくれた。』
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『れんくんと、またあいたい。おとなになっても、ぜったいに。』
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(……蓮くん?)
日記の挿絵には、小さな紫陽花と、男の子と女の子の落書きが描かれていた。
(まさか……)
胸の中にある「懐かしさ」の正体に、柚子月は気づいた。
それは、彼が「初恋の人」だったという可能性——。
小学校2年生のとき、ほんの数ヶ月だけ隣の家に引っ越してきた男の子。
転校生で、口数は少なく、雨が好きで、紫陽花を見に行くのが好きだった男の子。
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「ぼくね、あめ、きらいじゃないんだよ。みんながかささすから、ひとりじゃなくてすむから。」
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「ゆずきちゃんは、ひまわりみたいにあかるいから、すき。」
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言われたことがある。ちゃんと覚えている。
でも、いつの間にか彼はいなくなった。
急な引っ越しだった。連絡先も聞けず、そのまま何年も時が流れた。
(あのときの“蓮くん”が……今の“椿谷 蓮さん”?)
信じられなかった。でも、ありえる。
紫陽花。傘。静かな声。そしてあの笑顔。
柚子月は携帯を手に取り、「椿谷 蓮 大学」と検索をかけてみた。
——ヒットした。
隣町にある“青蘭(せいらん)大学”文学部。講義の推薦レビューに、彼の写真が小さく載っていた。
名前も、顔も、間違いない。
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——私の“初恋の人”は、本当に、目の前に現れてたんだ。
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次の日、柚子月は駅で彼を待っていた。
傘はもう返した。でも、まだ伝えたい言葉があった。
——私、あなたのこと、覚えてるよ。
あの日の雨、紫陽花、名前、手のぬくもり。
時間が止まったままだった“あの瞬間”を、今こそ動かしたい。
蓮がホームに現れた。
文庫本を開こうとした手が止まり、柚子月に気づいて、小さく笑う。
(今日こそ——言う)
だけどそのとき、彼の隣に、ひとりの女性が歩み寄った。
「蓮、遅いよ〜。今日のカフェ、予約入れてたのに!」
彼女は親しげに蓮の腕を掴んだ。
柚子月の視界が、一瞬、ぐらりと揺れた。
蓮は戸惑ったように柚子月と目を合わせて、口を開きかけた。
けれど、柚子月はなぜか、ただ会釈だけして、その場を離れてしまった。
(どうして、逃げたの? 私……)
自分でもわからなかった。
でも胸の奥に、小さなひびが走る音がした。
次回:第4話
「好きだったのに、知らない顔」
——蓮の隣にいた女性の正体。そして、柚子月の想いは揺れ始める。