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友愛感情
「好きだよ。」
唐突に、腕を掴まれてそう言われた。事の経緯はよく覚えていない。
それはどういう意味で、という問いの答えは、彼女の涙を溜めた瞳を見れば明らかだった。
一番、信頼のおける『友人』だと思っていた。
困惑するとは、このことを言うのだろう。どう返せばよいのか分からなかった。
「……うん、そっか。それで、どうしたら」
なんとも頓珍漢な返答だと思った。恋の告白をされるのはこれで二度目だというのに、彼のときから私は何も成長していない。
恐る恐る彼女の目を見る。彼女もまた、恐る恐るといったように私の目を見ていた。
お互いに、お互いの真意が分からなかった。
「……私と付き合ってほしい。側にいてほしい、……彼じゃなくて、私の」
私はさらに困惑した。いや、困惑、ではなく、混乱した。
……側にいてほしい? いいや、十分側にいるではないか。確かに私には付き合っている人———彼氏がいる。しかし、疑いようもなく一番私の近くにいるのは目の前の彼女だ。
それなのに———とそこまで考えて、ハッとした。
「……考えさせて」
パシ、と小さくどこかで音がした。私は彼女の腕を振り払った。急に、彼女がひどく|穢《けが》らわしいものに感じられたのだ。言いようもなく反吐がした。
裏切られたような気分だった。
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偶然か必然か、彼氏から連絡が来たのはその日の黄昏時だった。既に東から南の空は夜として暗く、しかし西の空にはまだ橙色が水平線上に染めている。これを航海薄明というらしい。
もしもし、と電話に出た。なのに、携帯の向こうは、ずっと静かだった。
電波でも悪いのか、と携帯を耳から離したとき。
「———別れよう。」
|澱《よど》んだような、でもいつもと同じ、澄んだような声が耳に入ってきた。
「……なんで?」
そう呟くのに精一杯だった。まさか彼女が何か? 不安と恐怖に満ちた瞳を思い出し、慌ててその考えを打ち消した。
「覚えてる? 告ったとき、俺がなんて言って、お前がなんて答えたか。」
もちろん覚えている。たった今、思い返していたところだったのだから。
確か、彼が『好きだ。付き合ってほしい』と言ってきて、それに私は———
「『付き合うって、具体的に何するの?』そう返したんだよな。」
そう。そう言った。なぜなら、本当に分からなかったから。それに彼は、一緒に帰って、よく連絡を取って、たまにデートして、とありきたりなことを答えたんだ。
それなら、と私は了承した。彼はそのとき、目を大きく見開いて、頬を少し紅潮させて、ありがとう、と、そう言ったんだっけ。
「……恋人やってたら、きっと振り向いてくれるかもしれない。ずっとそう思ってたんだ」
|呻《うめ》くような声だった。
「でも、違うんだ。いや、惚れて告ったのは俺だから、実感がなかったのかもしれない。けど、そうじゃない。違うんだ。」
まだ何も言われていないのに、なぜか息を呑んだ。怖い。その続きの言葉を聞くことが。
「———お前、恋愛感情が分からないんだろ。」
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どれくらい時間が経ったのだろう。気が遠くような気がした。
恋愛感情が分からない? いや、恋をしたことは幾度もある。同じ空間にいるだけで胸が高鳴り、心臓が熱くなった。どうやっても緊張してしまって、まともに目を合わせられなかったことも、何度もあった。
これを『恋』というのだと、私はずっと思っている。きっと周りに聞いても、そうだと言うだろう。
ただ、ひとつだけ違和感があったとするなら———
「……話しててもさ、恋バナとか」
彼の声が、耳に滑り込む。
「なんだか、サラサラしているんだよ。|瑞々《みずみず》しいように見せかけて。根が張ってないというか、さ。ああ、これが砂上の楼閣っていうのか、って、なんとなく納得した」
———恋情と独占欲が、自分の中でうまく結びつかなかったことだろうか。
ずっと、嫉妬も独占欲も、友情に付属するものだと思っていた。
「……俺は。俺は、特別になりたかった。惹かれて、惚れたんだから。気がついたら、そう思ってた。付き合ったら、彼氏になったら、そうなれるって思ってた。」
そこで彼は言葉を切った。思考はとっくに冷めて止まっていて、まるで宙に吊るされたかのようだった。
「でも、違うんだろ。お前の中で恋情は、友情よりも軽いものなんだろ。だからきっと、一生叶わないんだ。———だから、別れよう。」
どう答えたのか、よく覚えていない。この瞬間、彼氏は元彼になっていた。
「……友達から告られたんだろ。」
彼の声で我に返った。なんだか、夢の中にいるようだった。
しかしなぜ、彼はそれを知っているのだろう?
「断っとけよ。」
ツー、ツー、と携帯が鳴った。通話が切れたのだ。
断っとけよ。
それが彼が彼女に嫉妬しての言葉ではないことは、私が一番よく分かっている。
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「……あ。」
彼女の姿を再び見たのは、その翌日のことだった。
彼女は一瞬、怯えたような目をして、さっと逸らしてしまった。そのまま背を向けていこうとして———。
「待って!」
慌てて腕を掴んだ。いつか、彼女が私にそうしたように。彼女が振り返った。その瞳は私を映してはいなかった。ただ恐怖と不安が漂っている。
引き留めたはいいものの、かける言葉は見つからなかった。
「返事、は……考えてくれたの?」
|掠《かす》れて、消え入るような声だった。は、と息を詰めた。
「返事、って、付き合うかどうか、ってこと?」
そう言いながら、気がついた。目の前の彼女が穢らわしく思えた理由。『特別な関係』として恋人を、恋情で結ばれるとされるものを求められることに、自分が押し込まれるような苦しさを感じたからだ。
それはすなわち、彼女のことも、私自身のことも、軽く扱うことに他ならないから。
それをさせようとする彼女に、裏切られたような気がしたのだ。
「……昨日、彼と別れたんだ。」
どう切り出せばよいのか分からなくて、そう言った。彼女の目が見開かれた。ふらり、と瞳が揺れる。
「振られたんだ。私、彼を特別にできなかったから」
彼女はずっと、私を見ていた。困惑したような目だった。彼女が私に告白してきたときも、私はこんな目をしていたのだろうと思った。
彼もそう、彼女もそう、普通は恋情は友情よりも上なのだ。——否、私自身が世間一般の恋を『恋』として認識できないだけかもしれない。
「付き合うっていうのがどういうことか、分からない。親友から恋人になるっていうのも、どう違うのか分からない。彼には気づかれた。だから振られたの。だから、あなたともきっと……付き合えない。」
彼は「告白を断れ」と言った。きっと、今私が頷いてしまえば、いつか彼女を苦しめることになるからだろう。どうやっても叶わない、と言っていた彼のように。
「でも私にとって、あなたは特別だよ。」
こう言うことが彼女の救いになるとは思えなかった。すれ違っているのだから。彼女は何も言わなかった。でも、違うそうじゃない、と彼女の揺れている瞳は言っている。どうすればいいのだろう。不意に拒絶したくなった。先に腕を掴んだのは、私なのに。
「ただの恋人以上の関係だと思っているから、付き合いたくない。……私、普通じゃないからね」
「……ただの恋人、って」
彼女が|呟《つぶや》いた。ただの恋人。彼女にとっては不自然に聞こえるんだろうか。私が『ただの友達』という言葉に違和感をおぼえるように。
「……そっか。」
ふっと彼女から緊張が解けていくのが分かった。理解できたのだろうか。そもそも、できるものなのだろうか。
「そっか。私、どっちにしても振られるんだね」
寂しそうな、今すぐにでも消えてしまいそうな声だった。不安になった。このまま、彼女がいなくなってしまったら。
「……付き合えないけど、側にいるよ。彼じゃなくて、あなたの」
彼女が目を見開いた。だんだんとその瞳は涙を溜めていって、|溢《あふ》れて頬に零れ落ちる。
「ありがとう……!」
慌てて駆け寄って、彼女の肩を抱いた。温かった。滑らかな髪から、ほのかにシャンプーの匂いがする。
私が普通ではないことに、彼女を従わせてしまっているようで申し訳なかった。罪悪感に締めつけられて、仕方がなかった。
恋愛感情が分からないんだろ、と言っていた彼の声が頭の中に蘇った。
———もし私が、ちゃんとした『恋愛』ができたのなら。
彼にも、今腕の中にいる彼女にも、こんな思いをさせずにすんだのだろうか。
「これからもずっと、一緒にいられますように」
そんな考えを打ち消すように、私はただ天に祈った。