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5話
湿った草原に、重たい空気が流れていた。
風が一瞬止まり、周囲の音がすべて吸い込まれるように静まり返る。
その中心に、“それ”は立っていた。
まるで墨汁を水に垂らしたような、黒く揺れる塊。形は曖昧で、目も、口もない。
……けれど、確かに私たちを見ている。
「……気持ち悪い」
れんかが小さく吐き捨てるように呟く。
「エルザ。解析、進んでる?」
「うん。……でも、これは――」
エルザの眉が僅かに歪んだ。
あの子がこんな顔をするのは珍しい。
「“この世界のもの”じゃない。魔力の系統が完全に外部由来」
「外部?」
月翔が眉をひそめた。
月は静かに呪文書を閉じる。
「つまり、誰かが“この世界の外”から干渉したということですね。彩音様」
「ええ。そうみたいねぇ……」
胸の奥が、少しざらつく。
これはただの“未確認生物”なんかじゃない。
何かの“始まり”かもしれない。
そのとき――
「……っ!」
私の感覚が、ふっと反応した。
一瞬、黒い塊の輪郭が歪み、伸びる。槍のような影がこちらに向かって走った。
「来るわよ!」
反射的に手をかざし、魔力を展開する。
「《サンクチュアリ・ヴェール》」
金色の薄膜が目の前に現れ、影の槍がぶつかると、火花のように光が弾けた。
「れんか、今!」
「任せてっ!」
れんかが両手を広げると、地面に光の陣が走る。
「《結界展開》!!」
透明な半球状の防御壁が私たちを包み、空気がピンと張り詰めた。
「こいつ……めちゃくちゃ速い!」
月翔が舌打ちしながら周囲を索敵する。黒い塊は一撃では終わらず、姿を揺らしながら何度も影を飛ばしてくる。
「彩音様、攻撃はどうなさいますか?」
「まだ、様子見よ。焦らないの」
エルザは無言で手をかざし、光の糸のような魔力を放った。
その糸が影に絡みつき――少しだけ、形が崩れる。
「……ふぅん、効くじゃない」
「エルザ、それ、維持できる?」
「短時間なら」
「じゃあ――捕縛する」
私は影を睨みながら、右手を静かに掲げた。
「《束縛》」
足元に魔法陣が展開し、そこから幾重にも光の鎖が生まれる。
鎖は空気を切り裂き、黒い塊に絡みついた。
「よし……っ」
一瞬、影が暴れた。だが逃げ切れない。
形が崩れ、どろりとした液体のように地面に溶け出す。
「……ねぇ、これ、消えた?」
れんかが身を乗り出そうとするのを、私は手で制した。
「まだよ。これは――」
――次の瞬間。
地面から、不気味な音を立てて影が広がった。
「っ!」
月翔が咄嗟に後ろへ跳ぶ。
それは“逃げた”のではない。“分裂”したのだ。
「分裂……? めんどくさいわねぇ」
私はため息混じりに呟いた。
まるで私たちの反応を見ているようだった。
「彩音、どうするの?」
ムエルが袖を掴んで見上げる。少し怯えているのがわかった。
「……一度、様子を見ながら囲い込む。焦らず、確実にね」
風が再び強くなり、影がじわりと動く。
黒い“何か”は、まるで笑っているみたいだった。