公開中
勇気と歯車
ある静かな港町に、小さな時計店がありました。
店主の|健二《けんじ》は、もう何年も心の時計を止めたまま生きている老人です。
数年前、最愛の妻を亡くしてから、彼は「明日」が来るのを恐れるようになっていました。
ただ淡々と、壊れたネジを巻き、歯車を直すだけの日々。
そんなある日、一人の少女が店に飛び込んできました。名前は|葵《あおい》、小学4年生。
彼女の両手には、泥にまみれてガラスの割れた、古びた懐中時計が握られていました。
「おじいさん、これ、直せる?」
それは、病気で入院している彼女の母親の宝物でした。母親の容体は悪く、手術を数日後に控えています。
「お母さん、怖がってるの。だから、この時計がまた動き出せば、ちゃんと未来の時間も進むって信じられるから…お願い!」
健二は一度、断ろうとしました。時計の内部はサビだらけ。心臓部である「てんぷ」という部品が完全に歪んでいたからです。
直すには、気の遠くなるような作業と、何より「この時計を絶対に動かす」という強い情熱が必要でした。
今の健二には、それが一番欠けているものでした。しかし、葵の真っ直ぐな瞳が、健二の止まった胸の奥を激しく叩きました。
「…やってみよう」
その日から、健二の戦いが始まりました。徹夜で机に向かい、虫眼鏡を覗き込み、髪の毛ほどの細い部品をピンセットで調整します。
何度も失敗し、指が震えました。「もう無理だ」と諦めそうになるたび、病院の窓から空を見上げているであろう親子を想いました。
健二は気づいたのです。自分は妻を亡くした痛みが怖くて、新しい時間を進めることを諦めていたのだと。
でも、目の前の少女は、未来を信じて必死に今を生きている。
「俺も、もう一度時間を進めたい」
---
手術の日の朝。ついに最後の歯車が噛み合いました。健二がネジを巻くと――。
チク、タク、チク、タク。
力強い、命の音が店内に響き渡りました。
健二は走って病院へ向かい、手術室に入る直前の葵とお母さんに時計を手渡しました。
時計の音を聞いたお母さんの目に、涙が溢れます。
「ありがとう。私、頑張るね」
---
数ヶ月後。
港町に、心地よい風が吹く季節が来ました。
時計店のドアが開き、
「健二さん!」
と元気な声が響きます。そこには、すっかり元気になったお母さんと手をつなぎ、満面の笑みを浮かべる葵の姿がありました。
葵の胸元で、あの懐中時計が今も確かに、未来へ向かって時を刻んでいます。
そして健二の胸の時計もまた、新しく、力強く動き出していました。