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或る間
余がその町に滞在せしは、暦にして三月に満たざりき。
海に近き低地にあり、昼なお薄暗く、朝夕の別も曖昧なる処なり。
人は多く語らず、語るときも声を潜め、
己が言葉に責任を負はぬやうな面持ちをしてゐたり。
余は官の命により医書を調べ、暇を見ては市中を歩きたり。
ある夕刻、石畳の小路にて、一人の男とすれ違ひしが、その瞬間、妙なる感覚に捉へられたり。
人と交錯する際、通常は互ひの存在を確かめる一瞬の抵抗を覚ゆるものなれど、
その男にはそれがなかりき。
影を踏んだか、霧を抜けたか、判断のつかぬまま、余は思はず振り返れり。
男は立ち止まり、こちらを見たり。
年の頃は三十前後、衣は質素、腰には古びた鞘を帯びゐたり。
目のみ不思議に澄み、静かなる水底のやうな深さを宿せり。
「先生、何か」
然れど、古き書を読むが如き調子あり。
「いや、人違ひかと思ひて」
男は小さく首を振り、
「人は、違ふと思ふときほど、近づきてゐるものです」
それきり、男は去りぬ。余はその言葉を、その夜、幾度も反芻せり。
翌日より、町に奇妙なる噂立ち始めたり。
夜盗が捕らはれずして姿を消したり、賭場の争ひが血を見ずに終はりたり、
剣を抜いた者が、何故か己が刃を納めて帰りたり。
いづれも理由は語られず、ただ「そうなった」とのみ人は言へり。
三日目の夜、余は再び彼に会ひたり。
河岸の倉庫跡にて、月も出でず、霧の濃き刻なり。
彼は一人、何もなき空を相手に、静かに足を運び、身を翻し、鞘を払ひてゐたり。
その動き、舞の如くなれど、刃の気配は明らかに人を制するものなり。
「見られましたか」
いつの間にか、声を掛けられたり。
「修練か」
「必要なことです」
彼は剣を納め、余の方を向けり。
「先生は、物語を信じますか」
余は一瞬、答へに迷ひたり。
「信じるとは、事実と認むることか。それとも、意味を認めることか」
彼は僅かに笑ひ、
「先生は既に、半ばこちらに足を踏み入れてゐる」
そして、語り始めたり。
世には流れあり、人はそれに沿ひて生きる。
善も悪も、勝ちも負けも、予め形を与へられ、人はその中で役を振られる。
然れど、時にその流れは濁り、筋は歪む。
その歪みが人を不幸にする時、誰かが内より手を入れねばならぬ。
「外から正す者は多い。されど、内に入り、触れ、直す者は少ない」
「君は、その役を担ふのか」
「役といふ言葉は、近いが違ふ。余はただ、書かれた行の間にゐるだけです」
その言葉を聞きしとき、余は奇妙なる寒気を覚えたり。
彼は己を英雄とも裁定者とも言はず、ただ「間にゐる」と言へり。
その立ち位置こそ、最も孤独なるものにあらずや。
「では、君自身は誰に読まれる」
彼はしばし沈黙し、霧の向かうを見たり。
「それを知れば、消える」
その夜を最後に、彼は姿を現さざりき。
町は再び平穏を装ひ、人々は噂を忘れ、日々を生きたり。
余のみが、あの霧の夜の手応へを忘れ得ずにゐる。
今、余はこれを書し、机に向かふ。
筆を進めるほどに、一つの疑念深まる。
彼が言ひし「間」とは、果たして彼だけのものなりしか。
書く者と、書かるる者、その境に立つ存在は、常に読者の背後にも忍び寄る。
もし頁の行間に、微かな気配を覚えたなら、それは彼か、あるいは――
今まさにこれを記す余自身かも知れぬ。