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「にゃ~。」
マンションの高層階。南向きのベランダで日向ぼっこをしていた灰色に黒と白の縞模様が入った猫が、コンクリートの壁に仕付けられた猫専用の小さな出入り口から部屋へと入ると一声鳴いた。
そこではこの部屋の住人である若い女性が中央におかれたテーブルの上で何やらノートパソコンを弄っていた。だが猫の鳴き声に、彼女は顔をノートパソコンの画面から顔を上げ猫の方を向いて話しかける。
「あら、ひなたぼっこは終わったの?ミーくん。それじゃゴハンにしましょうね。」
女性はそう言いながらノートパソコンの画面を閉じるも、寄って来た猫をカーペットの上にごろんとひっくり返して猫の腹に顔を埋めくんくんと匂いを嗅ぎ始める。
「う~んっ、ミーくんのお腹、お日様の匂いがするぅ~。」
「みゃ~。」
猫は女性が顔で腹をぐりぐりする度に身をよじらせながら鳴くが嫌がっているのではないようだ。ときたま女性の頭を前足で引っかく素振りを見せるが、これは多分筋肉の条件反射だろう。その証拠に猫は爪を立てていない。所謂猫ぱんちというやつか。
「ふぅ~っ、眼福、眼福。どれ、ゴハンを用意するからちょっと待っててね。」
女性はそう言いながらも猫の腹を今度は両手の指でくすぐりだす。手で撫でられると顔を埋められるより刺激が強いのか猫は体を左右に先程より強くくねらせて反応した。
後、多分彼女は『感服』と言おうとしたのだと思うがそこはそっとしておいて下さい。似たような言葉の使い間違いなんて誰しも経験があるでしょう?
「みゃ~。」
「あーっ、はいはい。ごめんね、ゴハンだよね。どれ、今日のお昼ゴハンはなにかなぁ。」
そう言いながら女性は今いる部屋とカウンターで隔てただけのキッチンへと向った。そして壁に埋め込まれているちょっと大き目の電子レンジのような扉の前に立ちタッチパネルを操作し始めた。どうやらそうする事で献立が表示される仕組みらしい。
「おーっ、ミーくんっ!今日のお昼ゴハンは秋刀魚の減塩焼きだってっ!」
「!!」
彼女は表示パネルに現れた献立を読み猫へと知らせた。その声に猫はすぐさま反応しピーンといった感じで立ち上がった。
「はははっ、ミーくん秋刀魚大好きだものねぇ。よしよし、私も同じものを頼んじゃおう。」
そう言うと女性はパネル上に秋刀魚と表示された人間用と猫用それぞれのアイコンを1回づつタッチする。そしてタッチパネル横のスキャナに瞳を読み取らせた。
ピッ。
小さな電子音とともに画面上に注文を受理したとの文字が現れる。するとどうだろう、数秒とかからずに壁の電子レンジのような扉の奥に彼女が今しがた注文した物体が現れたではないかっ!そうっ、なんとこの扉とその奥に埋め込まれている装置は『物質瞬間転送装置』だったのだ。これぞ人間が英知を注いだ科学の結晶。現代では過去に人々が願ったさまざまな便利アイテムが科学のチカラで具現化しているのである。
だが、昔の人が見たら羨ましがるような便利アイテムも、実際に使う立場となった者にとっては『あるのが当たり前』な存在だ。かなり昔の例えになるが『スマホ』や『核反応』なども登場当時の人々にとっては驚愕のアイテムだったはずだが幾年も経たずにそれらはあるのが当たり前の存在になっていった。特に『核反応』はそれまでエネルギーの主流であった木材や石炭と違って二酸化炭素を排出しない事からエコなエネルギーと宣伝され需要を伸ばしていたのである。しかも核反応物質はスプーンひと匙の量で石油換算でドラム缶何百缶分ものエネルギーを取り出せたらしいのだ。それにより当時の産業界の人々は「これを夢のエネルギーと言わずなんとするっ!」と力説したとかしないとか。
だが関係者や世論がいくら力説しようとも、今彼女の頭の中はこれから猫と食べる食事の事でいっぱいだ。エネルギー問題?そんなのどこか他所でやってっ!ってなもんである。だがそんな彼女を誰が責められよう。そうっ、高度に文明と技術が発達した現代において、この世の正義とは即ち『猫』の事なのだからっ!
猫と暮らす事こそが全人類の願いっ!まさに人類は猫の奴隷なのであるっ!猫、ネコ、ねこっ!猫こそが現在の地球の支配者っ!キング・オブ・キングなのだっ!
まぁ、なんでそうなったのかは話しても面白くないから割愛する。興味のある方は自分で調べて下さい。
なので猫である。彼女は『物質瞬間転送装置』から取り出した熱々の秋刀魚が乗ったプレートを猫の待つ居間へ運ぶ。そしてテーブルの上に置くと猫は待ってましたとばかりにテーブルの上へ飛び乗ってきた。
「まだ駄目よ、ミーくん。熱いんだからヤケドしちゃうぞ~。」
彼女にそう言われたが猫は秋刀魚から立ち上る香ばしい匂いに抗えない。少しづつ顔を近づけては熱さにびっくりしたように顔を離すを繰り返した。それでも焼きたての秋刀魚は中々冷めない。故に猫は己の下僕へ命令を下した。
「みにゃ~。」
「はいはい、ちょっと待っててね。フーフーしてあげるから。」
彼女の瞳を見つめながら鳴く猫の声に彼女は応える。まぁ、これは彼女が猫語を理解しているからではない。そもそもこのシチュエーションなら6人中5人は彼女と同じ行動を取るはずだ。そう、コミュニケーションに言葉が絶対必要とは限らないのである。まぁ、無いよりはあった方が万倍楽ではあるが、言葉って時に『嘘』もつくからね。
そして猫は漸く猫が食べられるまで彼女がほぐし冷ましてくれた秋刀魚を口にする。それでも最初は先ほどの失敗の記憶がまだあるのかゆっくりと。しかし、一口食べ終えると次からは夢中で食べ始めた。そんな猫を彼女は愛しい我が子を見るかのように見つめている。そして声をかけた。
「おいちいでしゅかぁ、ミーくん。う~んっ、よかったでしゅねぇ。」
彼女の問い掛けに猫は反応しない。ひたすらほぐした秋刀魚の身を咀嚼し食べ続けている。だが、彼女はそんな猫に声を掛けはするが絶対猫に触ろうとはしなかった。そう、食事中の猫は食べるのに夢中な為、下手に触れると獲物を横取りされまいと攻撃してくる事があるのだ。これは飢える事などなくなった飼い猫でも普通に起こる事である。つまり本能なのだろう。
さて、猫ばかり見ていては彼女の食事も進まない。なので彼女も自分のプレートに乗った秋刀魚に箸を伸ばして食べ始めた。当然調味料は醤油だ。
「う~んっ、美味しいねぇミーくん。この夏場に去年の秋に水揚げされた脂の乗った秋刀魚が食べられるなんて冷凍保存技術様さまだよねぇ。しかもこの焼き具合の妙っ!さすがはプロの技だねっ!特にこの大根おろしとの組み合わせは絶品だっ!」
そう、今彼女たちが食べている食事は『物質瞬間転送装置』にて、ここではない調理加工工場から転送されてきたものだ。その工場がこのマンションからどのくらい離れているかというと、なんと驚け地球半周である。つまりこの秋刀魚定食は南米のパラグアイで作られていたのだっ!なので彼女が先ほど言った『去年の秋に水揚げされた脂の乗った秋刀魚』と言うのは正しくない。正確には今年の4月、南米における秋の時期に沖合いで水揚げされ冷凍されていた秋刀魚である。
いや、別にそんな事はどうでもいいか。産地や賞味期限の偽装なんて今じゃあり得ないからな。何故って?そりゃ、この星の現在の支配者である猫様へ捧げる食べ物を偽装なんか出きる訳ないじゃんっ!そんな事、今では考えただけで重罪だよっ!全財産没収の上、金星に送られて死ぬまでテラホーミング作業だよ。さすがにここ5年はそんな人出てないよ。でも昔は10人単位でいたらしいよ。アホだね、人間って。
まぁ、アホな人間の事は罵倒してもつまらないので話を戻そう。そう、今回の主役は彼女と猫なのだから。
さて、自分の皿にあった秋刀魚をペロリと食べてしまった猫は、次に彼女の皿の上にある秋刀魚へ狙いを定める。だがそこは飼い猫である。如何に立場が王様と下僕であろうとも、欲望のままに人のものに手を出すなど上位生物たる猫のプライドが許さないのだろう。なので猫はとある作戦行動に出た。
「みにゃ~。」
「おーっ、ミーくんはもう食べ終わったのですかぁ。むーっ、もう少しよく噛んで食べた方がお腹に優しいでしゅよ~。あっ、これは駄目ですからね、こっちのは人間用の味が付けてあるからミーくんには毒です。ちょっとくらいなら大丈夫なんだろうけど、駄目です。くーっ、そんな目で見ても駄目なものは駄目ですからねっ!」
言葉ではそう言っているが、猫にじっと見つめられて彼女はわざと秋刀魚を箸からテーブルの上へ落とす。そう、先ほど言った猫の作戦とは『媚』だったのであるっ!なんだ媚かよと言うなかれっ!飼い猫に媚びられて抵抗できる飼い主はいない。そうっ、いないのだっ!何故ならそれが猫の飼い主というものだからであるっ!
「あっ、落としちゃった。うんっ、落としたものを食べるのはちょっとはしたないなぁ。だけど捨てるのはもっと勿体無い。う~んっ、しょうがない。ミーくん食べてくれますかぁ。」
「みゃ~。」
猫は彼女がわざとテーブル上に落とした秋刀魚をじっと見つめていたが手は出さなかった。しかし、彼女の言葉が理解出来るのか、彼女が食べてとお願いした途端ぺろりと平らげる。そして満足そうに口の周りを舐め始めた。まぁ、猫にとっても同じ秋刀魚でも味付けの濃い方が満足度が上なのだろう。これは酒飲みにおけるビールと発泡酒の違いに通ずるものがあるのかも知れない。いやこの例えは多分違うな・・。でも気にしない。
「はぁ、おいしかったでしゅねぇミーくん。さて食べて一休みしたら今度は運動ですよぉ。」
はい、ご飯タイムの終了と共に彼女の口調も徐々に通常に戻り始めた。まぁ赤ちゃん言葉はひとりだけで猫と話すときのスタンダードとも言われているから彼女だけの特徴ではないのだろうが、やはり聞いている方としてもちょっと恥ずかしかったです。えっ、女性の独り言を聞くなんて破廉恥だ?えーと、すいません。でも私にも色々と事情が・・。
その後、お腹が膨れて眠くなったのか猫と彼女は部屋の窓際の床で寄り添ってお昼寝としゃれこんだ。猫は彼女の胸に顔を埋めごろごろと喉を鳴らしている。時折しっぽが彼女の鼻先を掠めると彼女はくすぐったそうに顔を動かすが、目を開けることも無く猫のお尻に鼻先を突っ込んだ。そんな彼女の顔を猫のしっぽがぺしぺしと叩く。だがそれも2、3回で力なく終了し猫もまた静かに眠りについたのであった。
マンションの外は夏の最盛期の日差しがこれでもかと言う程大地を熱しているが、クーラーにより温度調節された部屋の中は快適であった。そんな部屋で彼女と猫は惰眠を貪る。時折これは無意識なのだろうが猫が彼女の胸を前足で揉む。それに呼応し彼女もまた無意識に猫の背を優しく撫でるのであった。
「ふふふっ、ふっかーつっ!よーしっ、遊ぶぞっ、ミーくんっ!」
彼女が昼寝から目覚めると猫は既に起きていて彼女から離れた場所で窓の外を眺めていた。彼女はそんな素気無い猫の興味を引く為、ちょっと大きな声で猫に声をかけたのだ。その声に猫も反応する。ぐーっと前足を支点に伸びをすると大きな口を開けてあくびをした。そして彼女の元へとやって来たのだ。
「にゃ~。」
猫は床に座っている彼女の太ももに体を擦り付けながら甘ったれたような声で鳴く。その声に彼女は用意していた遊び道具を猫の前に差し出した。
「はいはい、これね。ふふふっ、それじゃミーくん用意はいいかなぁ。現在勝敗はミーくんの99戦99勝です。果たしてミーくんは誰も成し得た事がないであろう100勝目の栄冠を手にする事ができるのかっ!いざっ、尋常に勝負だっ!」
彼女はそう言うと猫の顔の前で揺らしていた棒の先に鼠の姿を模した玩具を突然右に振った。それに合わせて猫がダッシュで追う。既に猫の目は本気モードである。所謂肉食動物が狩りをする時の目だ。獲物動きを的確に捉え、且つ動きを先読みし先手を取ろうとしている。
だがそんな猫に対し彼女も負けていない。いや、既に99回負けているのだがその殆どは敢えて彼女がミスをして猫に勝ちを譲ったのだ。そうする事で猫は自分の狩りに自信を持つようになる。飼い猫が狩りを覚えたからと言ってどうなるものでもないと思う人もいるだろうが、それは人間側の勝手な解釈だ。
仮に生活を保障され食べ物と寝る場所を提供されていようと猫たちには遺伝子に組み込まれている本能がある。その本能を自らのチカラで満たすという事は、現代の人間が忘れてしまった生きてゆく上での大切な衝動なのかも知れないのだ。
まぁ、彼女にそこまでの考えがあるのかは判らないが彼女は今まで何回かわざと負けている。しかし今回は100回目という節目だ。猫にとって99回だろうが100回だろうが回数に意味などないのだろうが、人間は数に神秘性を読み取る。いい例が数学における素数だろう。
この、今のところ出現するのになんの規則性を持たないように見える素数と呼ばれる数字たちは数学者たちの研究魂に火を付け油を注ぎまくっている。しかもただの数字遊びだけではなく高度に発達した通信情報の信頼性を確保する為の暗号に使われるという実用性まで備えている。
しかし、そんなものに熱中するのは人間だけだ。猫にとっては今目の前で左右に逃げまくる鼠の玩具を捕まえその喉元に噛みつく事こそが宇宙の真理。己に与えられた神からの使命であった。
そしてその時、突然猫は鼠の玩具を追いかけていた足にブレーキをかけた。限度一杯までむき出しにした爪がカーペットの繊維に食い込む。そんな急ブレーキを猫の体はしなやかに受け流し、前につんのめる事もなく停止したのだ。
そしてこれは猫の戦略であった。猫は次に自分の目の前に向こうの方からわざわざやってくるはずの獲物に備えて力を溜めるべく身を縮めた。そう、この時猫はそれまでの経験から右に行った獲物はある程度まで行くと左に戻るという事を学習していたのだ。これもまた効率よく狩りをする為に猫自身が編み出した狩りの方法なのだろう。
だがこの猫の待ち伏せ作戦は脆くも失敗する。そう、獲物を追わなくなった猫を見て彼女が咄嗟に鼠の玩具の軌道を変えたからである。とは言っても彼女も腕で動かしている鼠の玩具にそんな突飛な動きはさせられない。どう足掻いても彼女の関節稼動範囲しか動かしようが無いからだ。そんな限られた範囲で彼女が選んだ新たな軌道は上空だった。
先ほどまでは床の上を左右に動いていた鼠の玩具が今は自分の頭上を飛んでいる。だが全く手の届かない高さではない。猫は咄嗟に判断し4本の足に溜めていたチカラを開放する。まずは前足の2本、次に後ろ足の2本が床を蹴った。向った手先は獲物の未来予想位置だ。そう、この時ですら猫はちゃんと自分と獲物の相対位置と相対速度を計算していたのである。いや、計算という言葉は不自然か。猫は数学的な計算などしない。そう、猫は直感でそれらを感じ答えを導き出せるのだ。
「おーっ、やるなミーくん。まさかここで喰い付かれるとは思わなかったよ。うんっ、君はもう立派な狩人なんだね。」
空中で鼠の玩具を猫に咥えられた彼女はそれでも玩具の棒を離さない。なので鼠の玩具に噛み付いた猫はまるで釣られた魚のように彼女の前でぶら下がっていた。
「だけど今の姿はちょっとアレだね。なんか洗濯されて乾されている猫のぬいぐるみみたいだ。あははははっ。」
そう言って彼女は部屋のセキュリティシステムに向けて声をかける。
「ぽちっ、今のミーくんの動き撮れてる?」
『はい、天井と壁に配置されているカメラで現在も撮影が続けられています。』
彼女の問い掛けに天井のスピーカーから音声が返って来た。そう、彼女が『ぽち』と呼んだのはこの部屋のセキュリティーシステムに彼女が付けた名前だったのである。
「おっけぇ、後で編集してみんなに自慢してやろぉ~と。ぬふふふふっ、お茶目なミーくんの姿にみんなは歯軋りして悔しがるぞぉ。さっ、ミーくん。今度は高い高いして遊ぼうっ!」
そう言うと彼女は猫を抱きかかえ天井に向けて上げる下げるを繰り返しはじめた。セキュリティーシステムのカメラはその一部始終を録画している。
「ほらほらミーくん、高いぞーっ。おーっと、今度は急降下だぁーっ!と思ったら急上昇っ!はははっ、ミーくんはこれが好きだねぇ。」
いや、多分彼女は勘違いをしている。大概の猫はそんな事をされたら嫌がるものだ。事実彼女の猫も身をくねらせ彼女の手から逃れようとしている。しかし、彼女にはその動きが猫が喜んでいるように映っているのだろう。こうゆう時、言葉によるコミュニケーションが取れないのがもどかしい。
猫にとって彼女の行動は甚だ迷惑な勘違いであるがやがて猫は抵抗を諦める。自分が我慢すれば事はやがて収まる。故に今は我慢するのだ。どんなに凄まじい嵐でもやまない雨はないのだから・・。
そんな哲学的な考えが猫にあるはずもないが、迷惑そうな猫の顔を見ているとふとそんな事を考えているのかも知れないなどと想像してしまう。相手の表情を読み、その心情を推し量る。これは人間だけが会得した高度な感情予測なのかも知れない。えっ、チンパンジーもやるの?犬だってやる?あららそうですか。なんだ、大した事ないな、人間も。
さて、貴重な休日をマンションの部屋で猫と戯れて過ごしている彼女だが、現在猫を飼っているのは彼女だけではない。多くの人が猫を飼っているのだ。しかし、人間の数に対して猫の絶対数は少ない。なので猫を飼うという幸せを手にしている者は、猫を飼いたくても飼えていない者に対して優越感を感じている。そしてその感情を一番満たしてくれるのがネットの動画投稿サイトであった。
そこでは動画を観た猫を飼えない者たちからの絶賛が投稿者へと贈られる。とは言っても彼らが絶賛しているのは猫であって投稿者ではないのだが、投稿者にとってそんな事は瑣末な違いであった。自分の飼い猫がみんなから賞賛されているっ!それ即ち自分への賛美なのであった。
しかし、そんな楽しい猫との休日も夕暮れと共に終焉を迎える。
「あーっ、明日からまた仕事かぁ。ううっ、寂しいよぉ~、ミーくん。なので写真を撮ります。ほら、こっち向いてミーくん。」
彼女は携帯コミュニティツールに付属しているカメラ機能を使って猫の写真を撮ろうとする。だが何故か猫は携帯コミュニティツールを向けられると顔を反らした。もしかしたらカメラのレンズが嫌だったのだろうか?まぁ、確かにレンズは丸いので見ようによっては瞳に見えない事も無い。なので猫からしてみれば、何か得体の知れないものに見つめられている気になるのかも知れない。
「むーっ、相変わらずミーくんはカメラが嫌いねぇ。でもそんな事ではアイドル業は務まらないぞ。カメラの前ではいつもニッコリがアイドルの基本です。さっ、こっちを向いて。」
そう言いつつも彼女は猫がそっぽを向いている方に自ら回りこみシャッターを切りまくる。
「おっ、今の表情いいねぇ。嫌々感が滲み出ているよ。そうそう、そうゆうワイルドな雰囲気をたまに見せるのもセールスポイントだよね。よ~し、次は子供っぽい仕草で世の女の子たちをメロメロにしちゃおうっ!」
彼女に言われたからなのか、はたまたたまたまか。猫はごろんと寝転んで何も無い空間に猫パンチを繰り出す。いや、ネタをバラせばカメラのファインダーに写っていない場所で彼女が猫じゃらしをふりふりしているだけなのだが、現実の一部だけしか写さない画像では真実は常に写っていない場所に隠されているのである。
「くくくっ、世の猫を飼う事のできない底辺庶民どもよっ!ミーくんの愛らしい姿をネットで見てよがり狂うが良いっ!」
彼女は猫を激写しながらトンでもない事を口にする。まぁ、人前で無いので実害はないがなんとも駄目だめな言い草だ。だが彼女の言っている事も満更的外れではない。今の時代、世界は猫を中心に回っている。先の『人類vs猫の頂上決戦』で猫が勝利して以来、猫を飼っていない人は人間社会においても信用されず住環境から仕事関係まで全てにおいて底辺生活を余儀なくされているのである。
そう、この世は猫の為にあり、人間は猫に奉仕する為にのみ存在を許されているのであった。
だがそんな堅苦しい現在の世界情勢など彼女には関係ないようだ。人間は猫の下僕?そんなの当たり前じゃんっ!それが彼女の考えであり思いなのであった。但し彼女にとって猫とはミーくんの事であり、ミーくん以外の猫は猫ではあるがミーくんではなかった。つまり、ミーくんサイコーっ!それが彼女の生き様なのである。
さて、夜も更け遊び疲れた彼女と猫は今、仲良くベッドで丸くなっている。猫は彼女の胸の中で喉をゴロゴロ鳴らして寝ている。そう、この猫にとっても彼女の側こそが自分の居るべき場所であり、安心してその身をあずけられる『我が家』なのだろう。
しかし幸せとは永遠には続かない。次の朝、目覚ましベルの音に起こされた彼女は寝ぼけ眼で呟く。
「あーっ、仕事行きたくない・・。」
まぁ、これは別に彼女だけが怠け者と言う訳ではあるまい。全国の労働者の120%は、朝起きた時にこのような思いが込み上げてくるはずである。だが働かぬ者は猫を飼うべからず。どんなに巨額の資産を有していようとも働いていない者は猫を飼う事が出来ないのが現在の社会常識なのであった。
隠れて飼えばいい?はははっ、試してみたまえ。きっと10日以内に後悔する事となる。だが何故後悔するかはここでは教えない。下手に教えて対策されたら捕まえるのが厄介になるからね。
だが、そんな軽い鬱状態の彼女も彼女よりも早く起きて外を眺めていた猫が擦り寄ってくれば忽ち元気になる。
「みゃ~。」
「おーっ、おはようミーくん。相変わらず君は早起きだねぇ。ん~っ、お早うのキスだぞぉ~。」
そう言うと彼女は猫を抱きかかえて猫に額に唇を押し付けた。彼女が猫の口でなく額にキスをしたのは別に猫の口が臭いからではない。人間の口内は意外とバイキンが多いのだ。ただ人間自体はそれらに対して免疫を有しているので大事にならないが、それが猫に移ると時に大病を引き起こす事がある。まぁ、当然逆のパターンもあるのだがそうなった場合は何故か人間側は喜んでしまう飼い主がいるのは全くもって謎である。正に馬鹿に付ける薬はないとはこの事か。
さて、社会に従属して生活している人間の朝は何かと忙しい。なので彼女も猫ばかりをかまっている訳にはいかない。朝食として猫には栄養バランスが考えられている商品名『猫まっさかさま』という猫缶を開け、自分は簡単に食パンと牛乳とビタミンサプリメントで済ませるとクローゼットの前で出社の仕度に取り掛かった。
そう、若い女性として朝食より簡単に済ませられないのが身だしなみだ。とは言っても彼女も社会に出て既に10年。朝の変身にかかる時間は美少女アニメの少女たちが変身する時間と大差が無いまでに進化していた。これぞ長年の鍛錬の賜物か。
「よしっ、OKっ!戦闘準備完了だっ!」
彼女は姿見鏡の前でスーツを着込んだ自身の全体を確認すると自分で自分にOKを出した。そんな彼女の足元に猫が擦り寄る。
「あーん、駄目よミーくん。パンストが伝線しちゃうからダメっ!はい、こっちの古くなったやつで我慢してね。」
彼女はそう言うと伝線した為履かなくなった古いパンストを水の入った1.5リットルペットボトルに被せて猫の前に転がす。猫はそれでも彼女の足の方が気になるらしいが、彼女が頑として近寄るのを拒むのでしぶしぶといった体でペットボトルの方ですりすりを始めた。
「ミーくんは本当にパンストが好きよねぇ。そんなに触り心地がいいの?よくもまぁ飽きないもんだ。」
うんっ、もしかしたらこの猫は前世がおっさんだったのかも知れない。いや、それはないか。だっておっさんは死んだら異世界へ行くのがテンプレだものな。
「じゃあねぇミーくん。お留守番お願いねぇ~!いってきまーすっ!」
彼女は玄関先まで見送りに来た猫に投げキスを贈り、それでも後ろ髪を引かれる思いに踏ん切りをつけると自分の職場へと向った。その後姿を玄関に設置してある監視カメラが追う。
びっ。
『防衛対象者の外出と玄関の施錠を確認しました。これより対犯罪者撃退モードへと移行します。遠隔操作F-4アサルトライフルへの7.62ミリ弾の装填を確認。セーフティオン。対人レーダーオン。赤外線センサーオン。振動センサーオン。現在全警戒システムオールクリア。これより警戒しつつ待機モードへ移行します。』
彼女が部屋を出た事でセキュリティーシステムが自動的に仕事を始めた。そう、今の世の中猫を飼う者はあらゆる事態に対応しなければその権利を失うのだ。そして猫泥棒など持ってのほかである。法律でも猫の安全を守る為なら警告無しでの発砲も認可されているのが今のご時世なのだ。
さて、その後猫はどうしたかと言うと、彼女の姿が玄関の扉の先に消えるともうそこには用がないといった感じで窓際の部屋へと戻った。そして猫専用の出入り口からベランダへと出て手摺の上へ飛び乗る。
彼女の部屋は地上7階にある。故にベランダの手摺から地上までは20メートル以上あるのだが猫は気にする素振りもみせず器用に幅の狭い手摺の上に座り下を見ている。すると遙か下にひとりの女性がマンションから外へ駆け出てきたかと思うと上に向けて手を振るのが見えた。そう、駆け出してきた女性は彼女だった。
2年程前、初めて猫を飼い始めた彼女は、いつものようにエレベーターで1階へ降りマンションの出入り口を出てふと自分の部屋を見上げた。そして、そこに猫の姿を見つけた時は本当に驚いたものだ。彼女は会社へ遅れるのも構わずに急いで部屋へ駆け戻ると猫を手摺から下ろしたものである。
だが猫にとっては然程危険と思える高さではなかったのだろう。その後も猫はベランダの手摺に飛び乗ってはひなたぼっこを続けた。彼女もそんな猫に根負けし、ベランダの手摺の下に緊急時に開いて猫を確保するネットを取り付ける事で妥協したのだった。
さて、このような猫の行動は高層マンションの上階で猫を飼う殆どの人たちにとって共通の悩みらしく、現在多種多様な落下防止グッズが開発販売されている。因みに彼女が設置した落下防止装置のお値段は12万円であった。この額は彼女の月の手取りサラリーの半分以上である。但しこのグッズは猫保険の対象となるので彼女の出費は定価の3割ほどですんでいた。まぁ、それでも4万近い。中古品なら1万程度のモノもあるが、万が一作動しなかったらと考えると躊躇する。故に猫を飼う人たちは新品を購入するのが普通であった。まさに金額的には猫を飼うというのは人間の赤ん坊を育てるのと変わりないのであった。
その後、マンションの外まで彼女を見送った猫はこれで朝のお勤めは終了とばかりに自由時間を堪能すべく次の行動へと移行した。そう、なんと猫はベランダとベランダの間を屋上から下まで伸びている雨水管を器用に伝って下に降り始めたのだ。爪の立つ樹木ならともかく鉄管の雨水管を降りるとは自殺行為のようにも思えるが、猫は2メートル間隔で配管を壁に固定している支持金具部分を上手に活用し下へ降りていった。
当然部屋のセキュリティーシステムはこの猫の行動を把握しているが何故か警告は出さない。その代わり猫の首輪に取り付けてある位置発信装置に信号を送り作動させた。
ぴっ。
これにより、この地区の猫専用警戒システム経由で現在の猫の位置が部屋のセキュリティーシステムへ送られてくる。
情報によると猫は今漸く地上へ降り立ったばかりのようだ。しかし7階から降りた事を考慮するとこれはかなり速い。殆ど落下と変わらない速度で駆け下りた事になる。まぁ、実際3階から下の部分は足を滑らせて落下していたのだが、そこはこのマンションの売りである統合猫セキュリティーシステムがカバーしていた。そう、1階部分でネットを張り地上への激突を防いでいたのだ。
だが猫はそんな落下防止ネットから器用に這い出ると地上へと着地した。しかし照れ隠しなのだろうか自分は別に失敗してなんかいませんよ。今日はちょっと急いだだけですとでも言いたげに耳や前足の毛づくろいをする。
しかし体は正直だ。体面上は平静を装っていても、ぶわっと通常の何倍にも膨らんだ尻尾が、落下に対して猫がどれ程驚いたかを物語っている。格言に『猫も木から落ちる』というものがあるが、何事にも絶対はないのだろう。いや、落ちるのは猫じゃなくて猿だったっけ?
その後、漸く落ち着いたのか猫は大きく伸びをすると何もなかったかのように近くの公園の方へと歩きだした。
いや、猫よ。残念だが君の失敗は監視カメラで撮影されているからね。まぁ、彼女が見ると卒倒するだろうからセキュリティーシステムは見せないだろうけどちゃんとバレているから。
さて、ちょっとした失敗はあったが猫はそんな昔の事はもう忘れたとばかりにいつもの散歩コースの見回りを始める。まずは道路沿いの潅木だ。猫が住んでいるマンションには猫以外にも沢山の猫が住んでいる。近隣の他のマンションも同様だ。一戸建てやアパートでも当然猫は飼われていた。なので縄張りの主張も激しい。どんなにここは自分の縄張りだとマーキングしても次に訪れた時には上塗りされているのだ。それも複数の猫にである。
だけど猫は諦めない。その上に再度自分のマーキングをやり直し始めた。そしてくんくんと臭いを嗅ぐと満足したのか次のポイントへと移動するのであった。
そして猫は途中色々道草をしながらも最終目的地である近くの公園まであと少しという所まで辿り着く。この公園に来るには大きな幹線道路を横切らなくてはならない為、これまで何匹もの猫がその体をタイヤでノシイカ然とされていた。だが今は猫専用の歩道橋が整備され猫たちはなんの危険もなくこちら側と公園とを行き来できるようになったのだ。
とは言ってもそこは猫である。三歩歩けば忘れると言われている鶏ほどではないが、設置当初は中々歩道橋を使ってくれなかった。
なので今はセンサーが猫を感知すると『擬似マタタビ』の匂いで猫たちを専用歩道の方へ誘導する仕組みとなっている。
そんな致せり尽くせりの専用歩道橋を渡ってとうとう猫は公園へとやって来た。まだ朝早い時間の公園は誰もいない。朝の散歩やジョギング中の人も何故かいなかった。都会で人間たちが経済活動を開始して喧騒ざわめく中、何故かぽっかりと空いた空白時間。それが今の公園なのだろう。
しかし、人間はいなかったが猫はいた。それも一匹二匹ではない。ざっと数えただけでも50匹はいるだろうか。但し一箇所にまとまっている訳ではないので全体としてはぱっと見、そんなに猫が居るようには感じられない。それぞれが一定の距離を保つ。そう、猫の世界ではソーシャル・ディスタンスは付き合い方のデフォルトスタンダードだったのだ。
そんな猫の集会へ猫も参加すべく歩いてゆく。ところが猫のお気に入りの場所は既に別の猫に占拠されていた。一触即発。二匹の間に電撃が走る。
「シャーっ!」
まず先手を仕掛けてきたのは相手の猫だ。
ここは俺が先に来て確保したんだから、後からのうのうと来たやつは他をあたりな。
はい、別に本当に相手の猫がそう言った訳ではありません。私が状況からそう意訳しただけです。でも多分合っていると思います。だって猫が反応したからね。
「グゥーッッッ。」
猫は相手の挑発に低い声で対応した。体の体制は既に臨戦態勢である。そんな猫の反応を見て相手の猫も威嚇だけではすまないと判断したのか、のそっと立ち上がりこちらも戦闘準備を整えた。
しかし、相手の猫には何故か余裕が感じられる。そして猫の方はかなり緊張しているようだ。その訳は二匹の位置関係にあった。
今、相手の猫は公園に設置された半分を地面に埋設された大きなタイヤの上にいる。その高さは凡そ80センチ。対して猫がいるのは地面だ。その80センチの高低差が両者の心理状況に大きく関わっていた。そう、戦いにおいては常に相手の上を押さえるのが有利であり定石なのだ。これは猫の世界でも同じである。
だが、状況の有利は油断も誘う。逆に不利な方は背水の陣で臨んでいるとも言える。つまりこの戦い、先に隙を見せた方が負けるはずだ。
「シャーっ!」
「ミニァーっ!」
双方唸り声を上げ相手を威嚇する。だが周りにいる猫たちはそんな二匹の戦いに全く興味を示さない。いや、それは表面上だけで実際には全神経を二匹の戦いに向けているのだが外見的にその事が判るのはピクピクと神経質に動いている耳だけだ。全くもって猫とはツンデレな生き物である。
だがこの時、この二匹の戦いを無意味なものにしかねない事態が発生した。その事態とはっ!
「ほ~ら、猫たち。いい子にしてたかぁ。よしよし、いい子にしていた子にはゴハンをあげるからな。こら、順番だぞ。横入りは駄目だ。」
そう、実はこの公園に集まっていた猫たちはこの声の主を待っていたのだ。そしてその声の主こそ近所の子供たちからは『猫じじい』と呼ばれているじいさんであった。
基本、今の時代野良猫は存在しない。支配権を巡って人間との苛烈な戦いを勝ち抜いた猫は、人間を下僕として悠々自適な猫ライフをおくれるのだ。だがそこは猫である。中には遺伝子に書き込まれている孤高を愛する感情により人間と一緒の生活を良しとせず、一匹で生きている猫も少なからず存在したのである。
だが、そんな専用の下僕を持たない猫たちも『猫じじい』のような者たちからの献上品を口にするのはやぶさかではないらしい。そんな行動が周りの飼い猫たちにも伝わり、食べ物には困っていないはずの飼い猫たちも何故か『猫じじい』が猫たちに施す『猫まんま』の前では飢えた虎の如く我先にとかぶりつこうとするのであった。
これは推測でしかないが、多分『猫まんま』に振りかけられている鰹節がポイントなのかも知れない。そう、『猫じじい』は故郷の息子から毎年作りたての鰹節を大量に送られてくるのである。その鰹節に猫たちは大海原を自由に回遊している魚の幻影を見るのではないだろうか。
自由っ! (フリーダムっ!)
これぞ猫たちの為にあると言っても過言ではない至高の言葉っ!
今では専用の下僕を持ち、何不自由ない生活を送っている猫たちであるが、鰹節の香りが本能に刻み付けられた狩人の血や猫たちの中に仕舞い込まれてしまった何かを呼び覚ますのかも知れなかった。
さて、『猫じじい』の乱入によりあやふやなまま終わってしまった猫と猫の場所争いだが、美味しいものを食べ満たされた者は喧嘩などしないのだろう。今では二匹仲良くタイヤの上で互いを毛づくろいしている。
うんっ、ここで、なら最初からそうしろよっ!と突っ込んだ御仁は何も判っていない。結果を得るにはまず行動が必要なのだ。頭で計算しただけで先回りして結果を得ようとしても、そこで得た結果は経験という土台がない為なにか想定外の事が起これば容易く倒れる。行動と経験。これらの裏打ちがあってこそ結果は重要さを増すのである。そして猫たちはその事を経験により知っている。故に先ほどの戦いだったのだ。まぁ、『猫じじい』の乱入によってあやふやになってしまったのだが・・。
さて、猫たちのグランドシェフである『猫じじい』も去り、時間の針も午前10時を過ぎる頃になると猫たちは段々と公園からいなくなる。それと入れ替わるように集まってくるのが小さい子供連れのママさんたちだ。まぁ、ママさんたち自体は猫たちにとってそれ程脅威ではない。だが連れて来る小さい子供たちは猫にとって敵であった。
如何に飼い猫として触れられる事になれている猫たちも小さい子供たちの容赦のないぐりぐり攻撃には根を上げざる得ない。だからと言って爪を出して反撃できないのが飼い猫として飼い慣らされてしまった猫たちの悲しいサガだろうか。
結局猫たちは触らぬ神に祟りなしとばかりに小さい子供たちが近寄ってくる前に逃げ出した。そんな猫たちの中に猫の姿もあった。だが猫の向う方向はマンションとは反対方向だ。そしてそちら側には川しかない。しかし猫は途中ですれ違う他の猫たちなどに気を取られる事なく真っ直ぐにそこへ向った。
猫の住む町で川とは、護岸をコンクリートで固められた堤防の間を何種類もの絵の具の付いた筆を洗った後の水のような色をした液体を上流から下流の海岸まで通す為の通路でしかない。一応流れはあるので臭う事はないが、地方の清流の流れを見て育った者がこの川を初めて見た時の感想が『でかいドブ川だなぁ。』であってもこの町に住む者は反論できないであろう。
だが、見た目はそんな川でも水質的には衛生基準をなんとかクリアしている。そう、衛生基準ではあまり『濁度』は重要視されていないのだ。と言うか都会から大量の排水を放出されていながら透明な水が流れてる川は逆に怖い。『清き水には魚は住めず』ではないが何か除去基準外の新たな物質が含まれているのではないかと邪推してしまう。
さて、そんな殺風景な護岸に何故猫がやって来たかと言うと目的は水際にあった。そう、そこには今猫にとって一押しの遊びである『狩り』の獲物がいたのだ。その獲物とはっ!
てけてけて~んっ!シオマネキぃ~っ!
いや、ちゃんとした種別名は知らないのだが、とにかく『蟹』である。但し大きさは差ほどではない。大きいのは足の先から先まで20センチくらいのもいるが、そんなのは稀で大抵は5センチ程度だ。2、3センチくらいのも沢山居る。そんな蟹が猫のお目当てだったのだ。
とは言っても猫に蟹を食べる気はないようだ。そもそも彼女の部屋で朝食は済ませ、『猫じじい』からのおやつも食べたのである。如何にマンションからここまで結構な距離があると言ってもお腹が空くほどの運動にはなっていないだろう。
なので蟹を捕まえる行為は猫にとって遊びである。まぁ相手をさせられる蟹にとっては迷惑な話だろうがこれもまた自然の摂理だ。こんな都会の真ん中でも焼肉定食の掟は揺るがないのであった。あっ、弱肉強食だっけ?
「ギャニャーッ!」
その時、猫がなんとも情けない鳴き声と共に飛び上がった。よく見ると鼻には3センチ程の蟹がぶら下がっている。成程、蟹を舐めて顔を近づけたんだろう。そしてハサミで鼻を挟まれたと。
猫は顔をぶんぶんと振って蟹を振り払おうとするが蟹も負けていない。挟んだ猫の鼻先を更にハサミで強く挟んだ。それにより痛みの増した猫は更に頭を強く振る。蟹も振り落とされまじと更にハサミにチカラを込める。正に因果応酬のスパイラル。
だが天は猫に味方した。なんとぶんぶんと頭を振り続ける猫は足もふらふらなので当然よろける。そしてよろけた先にちょっとした杭があったのだ。そしてその杭に猫の鼻っ先を挟み込んでいる蟹が激突した。うんっ、後5センチずれていたら猫の頭が直撃してたね。はははっ、危機一髪とはこの事か。いや紙一重と言うべきなのかも。
どちらにしても安全とは慎重な行動があってこそである。だけどそんな事を猫に言っても理解しない。当然小さい子も同様だ。だから見守るのである。でも当の子供たちはそんな事など気にもせず今日も小さな冒険に勤しむんだろうな。はいはい、あんまり無茶はしないでくれよ。
さて、偶然ではあるが蟹の反撃を撃退した猫は挟まれた鼻っ先を舐めながら傷を癒す。まぁこれに懲りて次からは安易に顔を近づけない事だ。
そんなこんなで川での狩りにケチがついた猫は次なる冒険へと河岸を代えるべく護岸を離れた。つぎに向うのはこの国で一番高い建物である電波塔だっ!
猫たちの間には古くからの言い伝えがある。それは次のような内容だった。
この世界が暗黒に覆われし時、その者は現れる。その者、黒き衣を身にまとい高き塔の上から世を照らすべく歩み続ける。
されどそれを阻む者あり。白き衣をまといし言葉使いたちなり。言葉使いたちは『言葉』にて人々を惑わし全てを我がものにしようと謀る。その謀り事は世界を席巻したが、とある生き物だけは従わせる事が出来なかった。その生き物とはっ!
言い伝えはここで終わっている。この後は多分言葉使いたちが封印したのだろうと言われている。だが結末が語られない事により多くのifが生まれた。
果たしてとある生き物とはなんなのか?黒き衣を身にまとい高き塔の上から世を照らす者とは誰なのか?黒き衣と白き衣の争いはどちらが勝ったのか?
それぞれの問い掛けに万の仮説が現れるがどれも仮説であって確定ではない。この世に真実はひとつ。しかし、そのひとつを知るにはどれ程の試練が必要となるのだろう。故に神は結末を確定せず沢山のifを生き物たちに授けたのかも知れない。自分がそうだと信じたものこそが真実なんだと言うかのように。
さて、確かにとうの猫は電波塔に向けて歩いているが実は猫の目的地は電波塔ではない。電波塔はただの目印、目安でしかなかった。ついでに言うと上であげた言い伝えもパッチもんです。某風の谷のエピソードのパクリです。かっこよかったんで言ってみたかっただけです。なのででっかい蟲も出てきません。そもそもあの話に猫は出てこないしね。
さて、それでは猫はどこに向っているのだろう?答えはCMの後でっ!もしくはwebで検索っ!
はい、これテレビでやられるとムカつきます。視聴者を舐めているとしか思えません。速攻でチャンネルを変えます。えっ、ならお前もやるな?あれ、本当だ・・、はいすいませんでした。それでは続きをどうぞっ!
猫の次の目的地は川から電波塔に向けて歩く事10分程の所にあった。そこは小さな駄菓子屋だった。店ではおばあさんがひとりで店番をしている。今は平日のお昼時なので駄菓子屋のお客である子供たちはまだ学校だ。なので店には客が誰もいない。
「にゃ~。」
「まぁみーちゃん。今日も来てくれたのかい?嬉しいねぇ。まあ、何もないけどばばの膝でくつろいでおくれ。」
猫はおばあさんの足元で一鳴きするとジャンプしておばあさんの膝の上に乗った。
うんっ、猫はここではみーちゃんと呼ばれているらしい。えーと、こうゆうのをなんて言うんだっけ?地域猫?船乗り猫?ハーレム猫?通い婚?ただの浮気?
まぁ、そんな事はどうでもいいか。大事なのは猫が満足しているかどうかだ。そして当の猫はおばあさんの膝の上で喉をゴロゴロ言わせて昼寝としゃれ込んでいる。
今日も夏の日差しは強いがおばあさんの店は庇が大きくせり出しているので日陰には事欠かない。空気自体の気温は既に30度を超えているがここは川からの風が通るため結構涼しかった。
まぁ、とは言ってもそれも周りに比べればである。なのでこんな時に毛皮を着込んでいる猫に膝に居座られるのは如何に猫好きでも躊躇われるだろう。だがおばあさんは気にしていないようだった。別におばあさんが特別暑さに強い訳ではなかろう。実際おばあさんの額や胸元には汗が珠となって噴き出している。それに猫も目は瞑っているが寝ている訳ではないようだ。その証拠にベロリと舌をだして呼吸も若干荒い。
なら何故ふたりはくっついているのか?
まぁ、これは周りがあれこれ推測してもしょうがない事かも知れない。おばあさんとねこ。ひとりと1匹がそうしたいと思っているからそうしているだけなのだろうから。
さて、午後も2時を過ぎると小学生も低学年の児童たちは家に戻ってくる。そしてそんな彼ら彼女らが出かける先はっ!
答えはもう判っているよねっ!そうっ、『塾』であるっ!
はい、嘘です。ちょっとボケました。本当はプールです。
プールかよっ!
はい、突っ込みありがとうございます。でもしょうがないでしょう?さっきも言ったけど今の気温は30度越えてるんだぜ?最近のもやしっ子たちがこんな中外で遊んだりしたら忽ち熱中症でぶっ倒れちゃうって。
さて、ならばおばあさんの駄菓子屋は相変わらず閑古鳥かといえば差にあらず。中には元気な小僧もいるのだ。そんな小僧たちが駄菓子やアイスを買ってゆく。うんっ、近所にコンビニもあるのに小僧たちはここで買うんだな。これぞ地域経済の活性化の実践かっ!はははっ、大人も見習ってね。
「おばちゃんっ、これ頂戴っ!」
「はい、30円だよ。」
「あっ、ならこれとこれもっ!」
「えーと、全部で丁度100円だね。」
「はい、じゃこれ。」
「はい、100円丁度だね。ありがとうね。」
おばあさんは小僧から手渡された100円玉を大切そうに缶の中にしまう。そう、このお煎餅の空き缶がおばあさんの店のレジなのだ。当然消費税の計算機能など付いていない。と言うかこのおばあさんの商売から税金を巻き上げようとするやつは人間ではあるまい。そんなやつは俗に言う人の皮を被った外道だ。でも外道って口だけはうまいからみんなころっと騙される。まっ、そんな外道も猫に見つめられると忽ち本性を暴露されて逃げ出すのは物語の定番だけどね。なので選挙の際はその候補者が猫を飼っているかどうかを調べてから投票しましょう。
えっ、そもそも投票に行かない?あらら、まぁ別にいいけど後で文句を言うなよ?
さて、午後3時を過ぎると街中には大きな子供たちの姿も増え出す。世間では少子化が問題視されているがまだまだ居るところにはいるのだろう。
そして猫はそんな子供たちの気配を敏感に察知して今日のミッションを終了する時が来たと察した。猫にとって子供たちは敵である。しかも敵でありながら抗う事をそれまでの『習慣』から抑制されているめんどくさい敵なのだ。なので一番の防御方法は近づかない事である。
「にゃ~。」
猫はおばあさんに別れを告げると子供たちに発見されないよう物陰に身を寄せながらマンションへの帰還ミッションを開始した。ただ今日はちょっとタイミングが悪かったのかマンションの入り口付近で発見されてしまい、猫は掴まってぐりぐりされてしまった・・。うんっ、子供は本当に容赦ないね。
こうして、平日の猫の冒険は終了する。後はマンションの部屋へ戻り下僕の帰りを待つだけだ。そしてふたりで晩御飯を食べ満腹になったら暖かなベッドで眠るのだ。そう、これが猫の一日。勉強?何それ美味しいの?労働?それって楽しいの?ってな具合である。
しかし、そんな有閑マダム然とした猫ではあるがやはり一週間で一番嬉しいのは週末だ。月曜から金曜はその週末を楽しむ為の準備期間である。週末を最高に楽しむ為に敢えて怠惰な平日を過ごす。それが猫の週間サイクルなのであった。
そして日は昇りまた沈む。その変わる事のない繰り返しののち、とうとう猫と彼女が待ちに待った週末がやって来たっ!
金曜日の夕方。マンションの部屋の玄関の向こう側。エレベーターから続く廊下部分をこちらに向って走ってくる足音が猫の耳に届く。その音に猫が反応した。そう、その足音の主はこの部屋の住人なのだ。
「にゃ~。」
猫は寝そべっていたソファーをダッシュで降り玄関へと駆け出す。そして廊下の中央でまた寝そべった。ご丁寧に顔の向きは玄関の反対側だ。今の光景を見た者には猫がこの部屋の住人を迎える為にいそいそと走ってきたのが判るであろう。だが猫はそんな事をおくびにも出さずに「あら、帰ってきたの?」てな感じで自分の下僕を迎えるはずである。そして寝そべったままちらりと下僕の方へ顔を向けて一言。
「みゃ~。」
はい、これがこの猫の下僕を迎える最大限の礼なのでした。さすがは猫っ!どこまで行ってもツンデレだなっ!
さて、そんな猫の思惑など露知らないこの部屋の住人は、慌てているのか玄関の解錠に戸惑っている。2回続けてセキュリティーシステムからエラーを宣告された彼女は思わず玄関の扉を蹴飛ばした。だが金属の扉と皮のパンプスではどちらが被害を被るかは明白だ。
「あたたたたっ、もうっ!頑丈過ぎるぞ、この扉っ!」
いや、扉なんだから当然なのでは?蹴飛ばしたくらいで壊れるようでは扉の意味をなさないだろう?
だが今の彼女にそんな正論は通じないだろう。なんせ今は金曜日の夕方である。そしてこの扉の向こうには彼女が愛して止まない可愛らしい猫が彼女を待ってくれているのだ。そんな猫と今夜から月曜日の朝まで猫三昧の暮らしを堪能できるとあらば慌てるなと言う方が無理である。
しかし、こうゆう時は急がば回れ。猫を危険から守る為のセキュリティーに人間の都合は通じない。その為彼女は大きく深呼吸をし呼吸を整えた。そう、この部屋のセキュリティーは彼女の手の平の静脈血流を調べるタイプだったのだ。
そうして待つ事1分。漸く動悸が収まった彼女は再度センサーに手をかざす。
ぴっ。
「お帰りなさいませ、本願寺 恵さま。ご本人の確認が出来ました。扉のロックを解除致します。どうぞお入り下さい。」
ちょっと棒読みだがセキュリティーシステムが合成電子音声で彼女に扉の施錠を解除した旨を伝える。だが彼女の耳はそんな事など聞いていない。ぐいっと玄関の扉を押し開けると満面の笑顔で今部屋の中にいるであろう彼女の天使に向ってこう言うのであった。
「ただいまっ、ミーくんっ!さぁ、ご奉仕時間の始まりだぁーっ!」
-完-