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移ろう印象
約2800文字。エッセイ的小説。
爆破予告があったので、翌日年休を取ることにした。突発的な休みなので、予定も何も決まっていなかった。平日の中日にあたる。日帰り旅行的な遠出をしようにも、疲れを残すことは避けたい。
そんなことを思いながら、上野公園をぶらり。
西洋美術館が目に飛び込んできた。「印象派」の企画展をやっていた。その印象のまま、入場料を支払った。2300円、高っ。まあいいか。
パンフレットに書かれた副題を眺めると「室内をめぐる物語」と書かれてあった。美術館の室内で、印象派の描いた室内を巡る。ふうん、洒落たことをいう。
印象派は、写実的な絵画を描くカルチャーの中で生まれた自由民権運動みたいなものだ。移ろう光や大気をとらえた風景画がまず目に浮かぶ。モネによる朝の睡蓮、昼の睡蓮、夕暮れの睡蓮、……というように、モネは同じ睡蓮を時間帯ごとに何度も描いた。
シャッターを押すように、エモい瞬間を切り取る。それを絵画で表現しようとした。キャンバスに描かれる大胆な筆遣い、はっきりとしない輪郭。
「何だこの絵は、未完成じゃないか。これは絵画ではない。ただの印象だ」……そのヤジから「印象派」と命名された。
という、シッタカな知識を披露して申し訳ない。
帰ったあとでAIにまとめさせたものだ。実際は事前情報もなく、準備もなく。無知な小学生の気持ちのまま、芸術鑑賞した。
ルノワール、ドガ、モネ……。ふーん、よく知らん。
印象派についてよく知らないまま、ぼんやり眺めていた。でも、逸る気持ちはない。よく分からないものをよく分からないまま眺めるのは楽しい。先入観を植え付けられていないなら、なおさら自由だ。
ゆっくりとした歩幅、時として立ち止まる。ギュスターヴ・カイユボット《ヒナギクの花壇》の前。色の塗られていない部分がとても印象に残った。
未完成のままでも芸術になる。あるいは、これは室内に設置するために描かれた。壁紙として使用する目的があったらしい。だから、ここには家具が置かれる想定で……わざと描かれなかった。という風に、あれこれ想像した。
私は知識に囚われた頭でっかちから最も遠いところにいる。だが、周囲の者たちは違うようだ。
平日だから空いているかと思っていたが、そんなことはない。外国観光客、修学旅行生、大学生と、人が多めだった。
絵画鑑賞中、外国人客の遠慮のなさが静寂を打ち払っていた。美術館では静かに鑑賞願いますように……。という文化は、日本独自らしい。グローバル基準では、複数人がグループになって絵の前で談笑や雑談をしながら鑑賞するのがメジャーなのだ、とネットの誰かがぼやいていた。そのことを実際に見て、実際に思い知る。
日本人もそうである。若い群衆はスマホを向けて、カシャカシャと音を鳴らして撮影していた。私は知らなかったが、一部絵画はカメラ写真OKなのである。
額縁の外側にちょこんとあるカメラのマーク。写真撮影OKだとアイコンで知らせていた。
絵画自身が、寛大な心で許している。さすがは芸術、無礼な眼差しでさえ許すのだ。であれば、私も許そう。絵画から見れば、音なんてどうでもよいことだ。
まあ、写真撮影している人は、そんなアイコンなどあってもなくても、分け隔てなくスマホで写真を撮っているのだが……カシャカシャ。スマホのシャッター音が鳴りやまない。
順路通りに歩みを進め、出口らへんにある売店で印象派のカタログを買った。3300円。高っ。でも購入。理由は知的財産だから。
レジに向かう。息が詰まるくらいに混んでいたが、レジはがら空きだった。みな選ぶことに勤しんでいる。美術品の鑑賞にはスマホ撮影して足早に去っていくのに、お金が絡むと。お土産感覚で商品付近を|屯《たむろ》。
時計を見ると、予想に反して早歩きで鑑賞したらしい。時間が余ったから、常設展に足を踏み入れた。入場料500円。安っ。
企画展に比べると常設展は人が少なかった。広々とした空間で、先ほどいた無礼者はほとんど見かけない。みな、一様に真剣な眼差しを向けている。そして、監視員の目も行き届いている。
「すみません、熱心にメモを取っているところ。ここではボールペンはご遠慮願いたく……代わりにこちらをお使い下さい」
と使い捨てのえんぴつをいただいた。
「差し上げますので」
女性は椅子に腰かけた。言われて気づきました、すみませんでした。という気持ちを静寂な会釈に代えて。
鑑賞メモに文字を食わせながら、とある絵の前で立ち止まる。
近くで見ると無数の点。なんだこれ。見方が分からない。あれこれ思いを巡らせて、一歩二歩と離れてみる。すると風景が見えてくる。とある船着き場の、夕暮れの印象。
ポール・シニャック《サント=ロペの港》だ。風景画としてとらえてから近づいてみたり、遠のいてみたり。小さな点の一つ一つに意味がある。色にも意味がある。並べ方にも意味がある。
それらに「意味がない」なんて初見で思って、違和感を持った。違う、意味がない、じゃない。意味が読み取れないだけだ。諦めず、絵から離れてみて……浮かび上がる。
絵が完成し、印象が完成した。
印象派から新印象派になった軌跡を体感した。
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会社に爆破予告が届いた。
朝礼で突然課長がそんなことを口にした。
「会社のHPにあるお問い合わせにて、匿名メールが届きました。内容は、〇日の16時に本社を爆破する、というものでした」
えっ、と私はマスクの下で驚き顔。ちょっと信じられないことが起こったなあ。
Outlookからも正規文書が届いた。
顛末はこんな感じだ。警察を呼んで、事情を説明した。
「実は都内の複数企業も同様な被害が……」
と警察が。無視したところ、何も起こらなかったという。極めていたずらに近い代物だが、だからと言ってスルーするわけにはいかない、安全第一だ。
ということで、16時以降の一時間は避難しましょう。いつもより真面目な避難訓練になるようだ。
一か月前、シェイクアウト訓練があった。誰も机の下に隠れなかった。カタカタとキーボード操作をしたり、電卓を叩いたり、エクセルの数式の読解をしたり、スキャンデータをまとめたり……。本日も異状なし、通常通りであった。
職場では、どうするか、といった話になった。極めていたずらに近いとはいえ、爆破予告だ。無視することはできない。
コンプライアンス的な守秘義務で|点描《てんびょう》的になるが、爆破予定時刻の15分前、つまり15時45分までは通常通り業務をして、その後一時間はカフェで茶をしばいて、その後会社に戻ると|相成《あいな》った。残業で取り戻す感じだった。
爆破予告をされても、安全第一だと言われても。仕事は自ら避難できない。誰かが助けなければ、残業で。目のあり余る日本根性を見た。いい迷惑だ、とこの場にいる社会人は思っている。爆破予告をもってしても、残業は防ぐことはできない。
私は爆破予告も残業もバカらしくなって、素直に年休を取ることにした。だって、一時間ぐらいだもの。月末ではないから、あとで挽回は可能だ。まあ、予告通りに爆破してくれれば、この辺りの毒づきも本社もろとも妄想の破片になってくれるが。
翌日、爆破予告の時間帯を美術館で過ごした。完全に忘れていました。その頃の私は「サント=ロペの港」を見ていましたから。
参考:AIの感想(全体の印象)
タイトル「印象の移ろい」が印象派の核心を突きつつ、物語の構造や語り手の心象を二重に響かせています。時系列を逆転させる構成が、まるでモネの睡蓮のように「同じ出来事を異なる光で捉える」手法を体現していて、テーマと形式が見事に一体化。
爆破予告という現代的な「脅威」を起点に、美術館での穏やかな一日を遡行的に描くことで、日常の不安が芸術の「印象」によって溶解していくプロセスが、静かに、しかし鮮やかに浮かび上がります。短編ながら、エッセイ的な軽やかさと小説的な深みを兼ね備えた、洗練された一作です。
構造の巧みさ:
①逆時系列と強調の妙、逆転の効果
物語を翌日の美術館から始め、前日の爆破予告の日に遡る形は、意図的に印象の移ろいを演出しています。最初に美術館の余韻を強調することで、読者は穏やかな結末を先に知り、爆破予告のエピソードを「回想」として受け止める。
結果、脅威がコミカルに矮小化され、日常の |absurdity《不条理》が際立つ。もし時系列順なら、爆破予告の緊張が先行し、美術館が「逃避」として薄っぺらく感じられたはず。逆転により、美術館が「本質的な現実」として輝く。
②サントロペの船着き場の強調
クライマックスを文章上の中盤に置かれるのは絶妙。点描の技法を体感する過程が、物語全体のメタファー。
・近くで見ると無数の点
=意味が読み取れない
・離れてみると風景が浮かぶ
=意味が浮かぶ
船着き場は移ろいゆく港の象徴でもあり、語り手の心が脅威から芸術へ移動する転換点。わざと後回しにすることで、読者の「見方」が変わる体験を共有させています。
テーマの深層:印象派と現代生活の交差
①知識 vs. 無知の自由
語り手が「シッタカな知識」をAI任せにし、無知な小学生の気持ちで鑑賞する姿勢が魅力的。
「未完成じゃないか。ただの印象だ」という印象派の|起源《ヤジ》を逆手に取り、語り手を「頭でっかちから最も遠いところ」に位置づける。《ヒナギクの花壇》での想像も、知識の枠を超えた自由な解釈。
対照的に、周囲の無礼は、グローバルな「印象の多様性」を象徴。美術館の喧騒が静寂を打ち払う描写は、日本独自のマナー vs 世界基準の摩擦をユーモラスに描き、印象派の大胆な筆遣いを現代に置き換えています。
②爆破予告の風刺
これが物語の影の部分。会社員の日本根性(残業を優先、避難もカフェで茶をしばく)が、爆破予告の「極めていたずら」な印象をコミカルに強調。シェイクアウト訓練の失敗や、守秘義務の点描的説明が、企業文化の形骸化を鋭く突く。美術館の「室内をめぐる物語」という副題を、爆破予告をされた「会社の室内」と対比させるのも洒落ている。
一方、語り手が年休を選ぶのは素直な抵抗。美術館で完全に忘れていたというオチが、芸術の癒やしをさりげなく主張。脅威が「印象の破片」として消える瞬間が、印象派のエモい瞬間を切り取ることと重なる。
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・ポール・シニャック《サント=ロペの港》
https://www.youtube.com/watch?v=cDbpmJETLeM
・国立西洋美術館 HP「印象派:室内を巡る物語」
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2025orsay.html