公開中
小さい、あの子
姫宮 梨杏(ひめみや りあん)
姫宮家のリビングには、いつもと変わらぬ夕方の空気が流れていた。
小学五年生の姫宮花音はランドセルを下ろすと、すぐに宿題の準備を始めた。鉛筆を削る音がカリカリと響き、部屋の奥では妹の梨杏がソファに座ってゲーム機を手にしていた。
「梨杏、またゲームやってるでしょ?」
返事はない。
花音が立ち上がって近づくと、梨杏は少しだけ眉をひそめた。
「昨日、お母さんに“1日30分だけ”って言われたじゃん!」
「……やってない。データ整理」
「うそつけ〜! 整理でボス戦するな〜!」
花音がゲーム機を取り上げようとすると、梨杏がぴりっとした目でにらんだ。
「触んな」
その一言で空気が一瞬凍る。でも、花音は負けない。
「でも、ちゃんと約束は守ってほしいな。野菜は残さず食べるのに」
「……それは学校で残すと恥ずかしいから」
「じゃあ、宿題も残さない方がかっこいいって思えばいいじゃん!」
無言のままゲーム機をそっと置いた梨杏に、花音がにんまり笑った。
「……しりとりで勝ったら30分追加しよっか。英語縛りで」
「……は?」
梨杏は心底イヤそうな顔をした。
次の日、花音は梨杏の絵を見て驚いた。図工の宿題「家族の絵」。梨杏は「一人で描きたい」と頑なだったが、出来上がった絵には、風に揺れるポニーテールの花音と、無表情で立つ梨杏が描かれていた。
「……これ、私?」
「……うん」
「ふふ……似てる。ありがと」
それだけで、花音の目がちょっとだけ潤んだ。
ある日、梨杏がぽつりとこぼした。
「今日の給食、ピーマン出た」
「食べたの?」
「……うん」
「えらいっ!」
梨杏はちょっと照れくさそうに下を向いた。
「……花音だって、ゲーム嫌いなのに付き合ってくれるじゃん」
「ま、あれは妹サービスですから〜」
「……負けたくないだけでしょ」
図星を突かれた花音が「ちがっ……!」と口ごもった瞬間、梨杏がふっと笑った。
その一瞬が、とてもあたたかかった。
そんな姉妹に、少し冷たい風が吹いたのは、雨の日のことだった。
梨杏が傘を忘れてびしょ濡れで帰ってきた。
「なにしてんの〜!? 着替えて!」
花音が慌ててタオルを持ってくる。
けれどその夜から、梨杏は熱を出した。
「別の部屋で寝ましょう。うつっちゃうからね」
母の判断で、梨杏は一人、部屋にこもることになった。
「お水、置いておくね」
「……うん」
その小さな声に、花音は胸がぎゅっとなった。
梨杏は無口なまま、孤独に耐えていた。
三日後、梨杏の熱が下がる。けれど今度は花音が熱を出した。
「ちょっと、寒いかも……」
体温は39度近く。母が急遽、北海道に行かなければならなくなった。
「おばあちゃんが……亡くなったの。お葬式、行ってくる。三日間、ごめんね」
ふたりきりになった家で、梨杏は必死に看病した。
水を持っていき、冷えピタを貼る。
それでも、花音の熱はどんどん上がっていく。
「……お母さん……お水……」
うわごとをつぶやく花音を見て、梨杏は初めて本気で怖くなった。
「……こわい」
震える手で、電話をかけた。
「花音が、熱、すごくて……」
先生の落ち着いた声が、梨杏を安心させた。
「よくがんばったね、梨杏ちゃん」
花音は病院に運ばれ、インフルエンザと診断された。
母が帰宅したのは、花音が目を覚ました夕方。
「ただいま」
「おかえり……」
梨杏が母に抱きついたとき、初めて涙をこぼした。
数日後、花音が元気になると、ふたりはまた元のようにじゃれ合った。
「熱、もういや」
「私も」
「でもまた誰かが熱出したら……あたし、ちゃんとやるから」
花音が優しく笑う。
「私も、ちゃんと甘えるから」
ふたりは笑い合った。
その笑い声は、姫宮家のリビングに、またいつもの日常を運んできた。
おわりのことば
言葉が少なくても通じる。
でも、ときには言葉がないと伝わらない。
それを知った姫宮姉妹は、今日もまた、小さな世界をふたりで守っていく。
ゲームの時間、描いた絵、苦手な野菜、隔離された部屋、そして三日間の孤独――
全部、ふたりにとっては、大切な「ふつう」の日々。
それが、なにより愛しいのだ。