公開中
夜の色
アゲハ
夜の校舎は、底のない水みたいに静まり返っていた。
立ち入り禁止の屋上へ続く扉が、わずかに開いている。
嫌な予感に背中を押されるように階段を上ると、月明かりの中に彼女は立っていた。
フェンスを越えた、ほんのわずかな足場。
落ちれば終わる高さ。
一瞬で全身の血の気が引いた。
「何してる!戻りなさい…!」
彼女を止めるため駆け寄ろうとした。
すると彼女は振り向き、静かに告げる。
「それ以上近づいたら飛び降りますよ。」
夜風が吹く。
透明で、深い目。夜に溶けるような黒髪。
壊れそうなのに、完成されている。
その矛盾に、喉がひりつき、胸が締めつけられる。
「……綺麗だ。」
自分でも驚く言葉が出た。
彼女の目が、わずかに揺れる。
その夜はどうにか説得し、フェンスの内側へ戻ってもらった。いや、説得というよりかは懇願だろう。時間を引き延ばすように言葉を重ね、どうにかフェンスの内側に戻ってもらう。
それから、一週間に一度。
ふたりは屋上で話すようになる。
「別にいじめとかじゃないです。
ただ期待が重くて。飛んだら軽くなるかなって。」
先生は、光を並べた。
未来、景色、音楽、まだ知らない明日。
「飛ぶ前に僕の手を掴んでくれ。」
沈黙。
「忘れたくて心に閉じ込めた日々も僕に話してくれないか。心の温もりで溶かすからさ。」
彼女は何も答えない。
「信じてたいけど信じれないこと。そんなのどうしたって多分、これからだって幾つもある。その度怒って泣くの?それでもきっと。いつかはきっと。僕らはきっと、分かり合えると信じていてよ。」
その言葉に、彼女は初めて声を荒げた。
「もう嫌だって!疲れたんだって…」
泣いているのに、涙は落ちなかった。
それでも彼女は、飛ばなかった。
やがて先生は毎日のように屋上へ通うようになる。
彼女はいつも先に来て、ひとりで待っていた。
ある夜、彼女がぽつりとこぼす。
「先生に会ってから、少しだけ世界が変わったんです。」
「死ぬの、怖くなっちゃった。」
その言葉に、先生の胸が強く痛む。
「先生が話す未来とか、どうでもいい海の話とか、思い出しちゃうから。
前みたいに、何も感じないまま立てなくなった。」
苦く笑う。
「だから、待ってたんです。」
「……何を?」
「一緒に飛び降りてくれる誰か。」
静かな告白だった。
「ひとりで落ちるのは、ちょっと怖い。
でも、同じ重さの人が隣にいたら、怖くない気がして。」
先生の中で、何かが崩れた。
救うつもりだった。
正しい言葉で引き止めるつもりだった。
でも、世界の矛盾を語るうちに、自分の足場も削れていく。
努力が報われない現実。
優しさが義務になる社会。
守りたいはずの生徒に、何も届かない無力感。
夜が深まるほど、思考は沈む。
そして、あの日。
月は薄い雲に隠れ、街の灯りだけが揺れていた。
彼女は、いつもの場所に立っている。
先生は空っぽのまま隣に立つ。
長い沈黙のあと、こぼれた。
「……終わりにしたいなぁ。」
風が止まった。
彼女が、初めて笑った。
安堵と確信の混じった、やわらかい笑み。
「あぁ、この人だ。」
小さく、はっきりと言う。
「やっと、私の気持ちを理解してくれる人が来た。」
先生は何も言えない。
「私が待ってたのは、先生だったんだ。」
フェンスに手をかける彼女。
今度は、越える。
振り返り、手を差し出す。
「一緒に、軽くなりませんか。」
その手は震えていない。
先生は知っていた。
これは救いではなく、間違いだと。
それでも。
彼女と同じ重さを抱えたまま、この世界に立ち続ける強さは、もう残っていなかった。
ゆっくりと、フェンスを越える。
夜風が、ふたりの境界を消していく。
先生は彼女の手を掴む。
今度こそ、本当に。
「飛ぶ前に僕の手を掴んでくれ。」
皮肉みたいな言葉に、彼女は笑う。
「はい、先生。」
街の灯りが、星みたいに遠い。
重力が、すべてを等しくする瞬間。
ふたりは同時に、足を離した。
景色が駆け抜ける。
風の音だけが、祝福のように響いていた。