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ちいさなねずみ
ハルは毎日を家の中で過ごしていた。あまり騒がず、一人で過ごしていた。仕方ないと思っていたが、家に一人でいても、どこか遠いところに家があるようだった。
本を読んでいても、アニメを見ていても、すぐに見るのをやめてしまった。いつの間にかすることと言えば、ベッドの中で眠ることだけになっていた。
両親が帰ってきたとき、ハルはやさしく揺すられて起きる。起きたときは頭が痛み、のどがひどくかわいていた。
ぼんやりとした心地が抜けないまま、夕食を食べ、それとなく身体を洗い、部屋で眠る。ハルはほんとうにいつか、自分が言われたようになってしまわないかと、肺が押しつぶされそうだった。
その日、ハルはベッドの中で、夜の声に見つからないように、音を殺して泣いていた。それでも嗚咽は静かにしゃくり上げ、息を殺そうとしても吸う音が大きくなり、ハルはたいへんな思いをした。
毛布のかたまりを作って、ハルは泣いていた。
「ねえ」ふと、布団の中で、父親でも母親でもない、やさしい声がした。声といっしょに、ハルの手に、ふと柔らかくて小さなものが当たる。
ハルは驚いて声をあげそうになったが、声はしーと歯の隙間から息を零す。その息が、ハルの肌にそっと触れた。
ハルが目をこらすと、闇の中にぱっと灯りが灯った。白いねずみが、ランタンを持っていたのだ。
「こんばんは、ぼくはレー。きみは?」
レーと名乗ったねずみに、ハルは自分の名前を言う。
「うんうん、ハルか。ハルって呼んでもいいかな」
おとぎ話のような友達に、ハルは返事を遅らせる。一秒、二秒、三秒……。数を忘れるほどに経っても、レーは何も言わずに待っていた。ハルはこくりと頷く。
「ありがとう、それじゃあハル。突然だけど、きみをいいところに連れて行こう」レーはそう言うと、腰に手を当て、えっへんと胸を張る。
どうやって、とハルがとまどい気味に聞くと、レーはランタンを持って、にっこりと笑う。細めた目がハムスターににている。
「かんたんさ。このランタンにはね、魔法がかかってる。これを使えば、ちょっとした冒険に出られるよ。もちろん、気に入らなければすぐに帰ってこれる」
どうだい、とレーはハルに尋ねる。それを聞いて、ハルはまたしも、ふしぎな気持ちになる。
けれど、その言葉に、ハルはしばらく考えて、ふしぎな気持ちのまま頷いた。レーの顔はぱあっと華やかになり、持っていたランタンをかざす。
「うん、それじゃあさっそく行こっか!」
その光が揺れると、どこからか、鈴の音がきれいに響いた。
チリンチリン。
その音と同時に、ハルの体はベッドから穴に飲み込まれ、落ち始めた。暗闇をすり抜け、ところどころが光っている穴の中を落ち続ける。泣いていたときの何倍の声を張り上げて、叫ぶハル。
「だいじょうぶ! ぼくに任せて!」
ハルを落ち着かせるように声をかけると、レーはくるりと空中で回る。そうしてハルの肩を小さな手でつかむと、そこからハンググライダーが現れた。
現れた取っ手はふしぎとハルの手によくなじみ、握ったとたん、その動かし方もなんとなくわかった。
見上げると、それは帆は真っ白だった。代わりにレーの姿が消えている。レーがこのグライダーになったんだ、とハルはすぐにわかった。
「見て、いい景色!」
上から降ってきたレーの言葉に、ハルは地上を見下ろす。
とてもおおきな桜の樹が、空を突き抜けるほどおおきな樹が、立っていた。
桜の樹は、ふわふわとした色の花をつけながら、空へ川へ、土へ。花びらを落としていた。淡い色の花びらが、やわらかく飛んでいく。まるで手紙を届けているかのようだった。
「どこに届くんだろうね」
レーの言葉に、ハルは考え事をする。
虫かもしれない。とハルは思った。花びらを食べる虫に手紙を書いて、相手に届けているのかもしれない。もしかしたら、ラブレターになるのかも。
「じゃあ、見に行ってみよう」レーはそう返事をして、幹へ近づいていく。
どうやって、と尋ねると、レーは「すぐに分かるよ」とくすくす笑った。
ふたりは、桜の幹に近づいていく。すると、座れそうなくらいおおきな枝があちこちに現れた。そこには自分たちと同じくらいの背丈のアゲハチョウが、目を瞑って休んでいた。羽はベッドをおおえそうなくらい、おおきかった。ハルは驚きながら、慎重に枝へ足をおろした。レーは元のねずみのすがたに戻って、ハルの肩の上に乗った。
「こんにちは」レーがアゲハチョウに声をかけると、ゆっくりと背伸びをして、アゲハチョウは二人の方に振り向く。ハルは声が出なかったが、ぺこりと頭を下げた。
アゲハチョウの羽が、ゆったりと開いたり閉じたりをくりかえしている。
「ん? ああ、坊主か。こんにちは」
「チョウチョさん、桜がきれいですね」
「そうだな。ここらで休んでたら、よーく見えるぜ」
「桜って、花びらがすぐに散っちゃいますけど。何かに使ってるんですか?」ふしぎに思っていたことをレーが聞くと、「おうともさ」とアゲハチョウは答える。根本をつかみ、つーっと触って、先の方まで指が滑ると、触角がぴんと跳ねた。
「ラブレター、ってやつさ。オスがメスに贈る、ピンクと白の春のあらし、ってな。ただ——」アゲハチョウじまんの触角が、しゅんと垂れ下がる。
「俺様の場合、相手に直接送ったってびりびりに引き裂かれちまうから、適当に飛ばしてるワケよ」
はっはっは、とアゲハチョウは軽快に笑う。
「ま、適当に飛ばしたって、空っぽさ。じゃなけりゃ、今頃ここはメスのハーレムになって俺様は……って、こんな話、子供の前でするモンじゃねえか」
アゲハチョウはにんまり笑った顔を崩して、二人に向かってひらひらと手を振る。
「てなことで、待ちぼうけだし、そろそろ俺様は帰らせてもらうぜ。じゃあな、坊主ども」
「はい、気を付けて帰ってくださいね」
「おう、気をつけろよ」
アゲハチョウは、しゃべるだけしゃべって、どこかへ飛んで行ってしまう。ハルは、レーが小さな前足を振るのをまねすることが精一杯だった。
「ハルの言う通りだったね!」レーがいたずらっ子のように笑って、レーの肩から飛び出した。そうしてくるりと身体を回すと、今度は飛行機になった。
「さあ、乗って!」
その姿を見て、ハルは息が詰まってしまった。次に行こう、とさそうレーの言葉に、ハルは少しつかれきっていた。
「そっか、ちょっとつかれちゃったか。じゃあ、一回、きみの家にもどろうか」
ハルがうなずくと、レーは飛行機の姿を止めて、チリンチリン、と鈴を鳴らす。ふたりはもう一度、穴に落ちていく。落ちて、落ちて、落ちて。
ぽふりふんわりと、ベッドの上へ、戻ってきた。
たしかにそこはハルの部屋で、ハルは慣れたように布団の中にもぐりこんだ。
「今日はこのまま、休んでる?」
レーのやさしい言葉に、ハルはなんだかちくちくしたものを飲み込んだ気分になった。
どうしたらいいか分からないまま、それでもハルはなにか言葉を探した。
「だいじょうぶ、焦らなくていいよ」
レーの声に、ハルはかっと全身が熱くなる。
だいじょうぶじゃない。
レーがどんな顔をしているのか、見られなかった。
からっぽだから、と。ハルはこぼす。
その瞬間、のどの奥がどうしても熱くなって、息がうまく吸えずに、吐けずに、たまり始めた。
何もしていないのに、何もされていないのに、ふくらんでいく自分の気持ちが、いやになる。それでもどこにも行ってくれず、気持ちがハルのからだに、嫌な痛みをあたえていく。
ハルの耳から、おおきな声が響いた。皿が割れるときよりも、黒板を引っかくよりも耳障りな音がわんわん響いた。それでも、耳のいいはずのレーはいやな顔一つせず、ハルの体をよじ登っていく。小さくてまるい体は、ハルの頭へたどり着いた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」レーの声が聞こえるが、ハルの声は止まなかった。うずくまった胸の中で、ひゅうひゅうと幽霊のような音が鳴る。
だいじょうぶと言われても、なにがだいじょうぶなのか、とんと見当もつかなかった。
「きみは空っぽなんかじゃないよ」
レーの小さな手が、ハルの頭をやさしくなでていく。ハルは涙がとまらなかった。
ハルの頭に体を横たわらせて、レーはそっと抱きしめる。レーの体温は伝わらなかったが、ふわふわとした毛の感触が、かわりに伝わる。
「これはないしょなんだけど」
声がほんの少しやんだところで、レーは指を口の前に立てて、ひみつを零した。
「今まで旅をしてきたところは、きみの心の中なんだ」
レーの明かしたひみつに、ハルは目を見開く。
「見たことないところで、びっくりしたよね。でも、これはきみが体験してきたことだったり、気持ちだったり、こんなところがあればいいな。って、そういう心の世界なんだ。――きみの心の中は、今だって、こんなにたくさんのことがあるんだよ」同時に、やっぱりと気が付いた。
「外の世界につながると、ここの景色はいっぱい、いっぱい。いろんなものが増える。ゲームでも、物語でも、きれいな景色とか、おいしいものも。いいにおいのものも、ふわふわのものも。たくさんたくさん、集めてほしいんだ。傷つくものがあるかもしれない。いやなものが増えたなって思っても、それは疲れて、きらきらしたものが隠れてるからさ。そうなったら、つらくなったら休んでもいい。難しいものがあったら、もう少しおとなになって読めばいいんだよ」
ゲームでも、と、ハルは途切れ途切れにたずねる。
「そうさ」レーはハルの手の上で、にっこり笑う。
なんでも、素敵なものはぜんぶ、ここにためていけばいい。
「でも、ごはんを食べないと、動けなくなるよね。けがをしてたら、痛くてうごけないよね。だから」
たくさん泣いて、やすんで。元気が出たら、いっしょに——。
レーの声がかすれると同時に、ハルの目が開いた。
目が覚めると、レーは姿を消していた。おそらく、レーは……夢の世界に住んでいるからだ。夢の世界だったから、レーはしゃべることができたのだろう。
夢の世界のねずみ。そう考えて、ハルはくすっと笑う。
それから。ハルはたくさん泣いた。レーの言う通り、たくさん泣いた。
枕をぬらして、髪をぬらして、パジャマをぬらして、ハルは泣いた。いつの間にか、声を出して泣いていた。鼻水まで出てしまうくらい、泣いた。
たくさんたくさん泣いたあと、ハルは袖で涙をごしごし拭った。何本か、長い目のひげが抜けた。ティッシュで涙をごしごし拭くと、水が恋しくなって、ゆっくりと扉を開いた。
オレンジの日差しが窓から入っているのが見えた。窓を少し開けると、冷たい風といっしょに、明るくなった街が見える。ハルの髪がそよそよと揺れて、パジャマのボタンといっしょにきらめいて。
その冷たい風の中に、真っ白な飛行機が飛んでいた。
窓を閉めると、ハルはいそいでリビングに向かった。驚いているのもおかまいなしに、手を引いて、歩いて行く。
いそいで、いそいで。カラメル色の日が沈まないうちに。