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〖第五話〗 沈黙の階段
六月二十六日、午前六時四十分。
東京・目黒区の静かな住宅地にある一軒家で、赤羽理子の遺体が発見された。
通報したのは近隣住民の女性だった。数日前から新聞がポストに溜まり始め、呼びかけても応答がなく、不審に思って管理会社に連絡したという。警察が入室したとき、部屋の中は整然としていた。争った形跡もなく、室内の温度も高くはなかった。
そして、リビングルームの一角――大きな窓辺のそばに、彼女は座っていた。
赤い靴を履いたまま、頬に涙の跡を残したままで。
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「自殺……と考えるには、あまりにも"不自然"だ」
倉敷隼人は写真を見つめたまま呟いた。
赤羽理子の死は、芹沢律の死を知る者にとっては偶然で済まされるものではない。
二人は大学時代からの"詩の共犯者"であり、律の創作活動の中で最も親しい"証人"だった。
彼女の手には、詩集『水曜日の亡霊たち』が握られていた。
最後のページには、ボールペンでこう書き加えられていたという。
"私もまた、声を聞いた。夜の階段で。
あのとき、止められたのに、止めなかった。
私は、沈黙を選んだ。
律――
ごめんなさい。"
倉敷は口元を引き締めた。
彼の脳裏には、先日望月紗季から送られてきた写メの画像がよみがえる。あの封筒の中にあった芹沢律の"暗号詩"。そして最後の一節。
**"赤い靴を履いた彼女が、落ちていった"**
"落ちていった"。
それは比喩ではなかった。あるいは、それを見た者がいたということ。
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一方、望月紗季は赤羽理子の家を訪れていた。
立ち入りは制限されていたが、彼女は理子の妹・|美帆《みほ》に許可を貰い、わずかな時間だけ中を確認させてもらっていた。
彼女の部屋には、大学時代の写真が数枚、まだ飾られていた。
その中の一枚に、紗季の目が止まる。
――五人で写った、サークル合宿の写真。
芹沢律、片瀬航、赤羽理子、宇田川柊司、そして望月紗季。
皆がまだ何も知らなかった頃の、笑顔。
だが、その中にある違和感に気がついた。理子の手の中に、小さな冊子のようなものが握られていた。
目を凝らして見ると、それは『夜の階段』――あのサークル時代の私家本だ。
「……なぜ、今でも持ってたの……?」
芹沢律が死ぬ三日前、彼ら五人は十年ぶりに"再会"していた。
サークル創立記念と称して、都内の小さな飲み屋で集まった。
そのとき律は、皆に「ある過去について話したい」と言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。
だが――あの夜、紗季はふとした違和感を覚えていた。
宇田川柊司の"目"。
彼は終始笑顔で会話に加わっていたが、ある話題になると、急に沈黙を守った。
それは、かつて大学構内で起きた"ある事故"の話だった。
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二〇十五年六月二十四日。
文学部棟の裏階段で、ある女子学生が転落するという事故が起きた。
記録上は事故、滑落。目撃者はいなかった。
その名は――"|山添《やまぞえ》|琴音《ことね》"。
彼女は一時意識不明となり、のちに大学を退学。
そのまま消息を絶った。
そして――彼女もまた、サークルの一員だった。
「……彼女、いたわ。私たちの中に、もう一人」
忘れていたはずの記憶が、脳裏で形を持ち始める。
詩に描かれていた"突き落とされた音"。
律が遺した"誰も知らないこと"。
そして今、赤羽理子が残した「止められたのに、止めなかった」とちう告白。
あの夜、何が起きたのか。
"突き落とした者"は、誰なのか。
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夜。
片瀬航から、一本のメッセージが届いた。
<「宇田川と会うことにした。あいつが何かを知ってる。」
<「君も来るか?」
<「例の"階段"で――あの夜、琴音が落ちた場所で。」
<「明日、午後七時。」
スマホを持つ指が汗ばんでいた。
あの場所。
封印された真実の始まり。
望月紗季は、息を呑んで画面を閉じた。