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珍獣と社会人
お題ランダムより「珍獣」「地獄」「事務員」です。
朝起きたらケルベロスがいた。
目をこすった。変わらずケルベロスはそこにいた。
「なんだお前!!!」
寝起きの脳や目が、急に覚醒する。
なんだお前。
「どうも」
ケルベロスは喋った。三つの頭のうち、言葉を発したのは真ん中だ。
「喋った!!!」
喋れるんかい。
「私は珍獣ケルベロスの|忠《ただし》です」
ケルベロスは名乗った。
ならば、こちらも名乗らなばなるまい。
「俺は藤原はじめという。28歳だ」
いや名乗ってしまったが、名乗ってよかったか。しかしもう言ってしまったことだ、気にしないことにする。
俺はあらためてケルベロスを観察する。
黒い体に三つの頭を持つ犬。典型的なケルベロスだなと納得してしまうあたり、俺はもうすでにこの状況を受け入れ始めていた。
「ケルベロスさん、俺になんの用なんだ?」
「忠です」
「た、忠さん、俺になんの用が…」
忠は俺を真正面に見据えた。
「私は地獄から、藤原はじめさんをを迎えにきました」
なるほど。ケルベロスが目の前にいるならば、そんなこともあるだろうと納得できる。
…地獄から?
「地獄からって」
「そうです。お迎えにあがりました」
頭が真っ白になった。
○●○
忠からことのあらましを聞いた。
人が死ぬ二十四時間前、ケルベロスは地獄へいく者を迎えに人間界に出てくるらしい。
つまり俺は、二十四時間後、死ぬ。
そして、地獄に、落ちる。
「おい忠さん、それは本当か!」
俺は忠の左右にあるもうふたつの頭を、両手それぞれに掴みながら訴えた。
「残念ながらそうなります…っと」
忠の左右にある頭が動きだす。俺はあわててふたつの頭から手を離した。
「起きたか。|左吉《さきち》、ミギ」
どうやら、忠とは違う頭はそれぞれ別の人格を所有しているらしい。いや、人じゃなくてケルベロスだから人格というよりケルベロス格なのか。
「藤原はじめさん。こいつらはそれぞれ、左が左吉、右がミギといいます」
忠はふたつの頭を見やりながら紹介をした。
統一感のかけらもない名前だ。せめて日本名に統一するくらいはできただろ。
「よろしくだぜ!」
「…よろしく」
左右がそれぞれ挨拶をしてきたので、俺も倣って「よろしく」と返しておく。
「それで、お時間はよろしいのですか?」
「時間?」
ベットの|傍《かたわら》に置かれたデジタル時計を見る。
9:21を表示している。
「遅刻じゃねーか!!!!!!」
○●○
案の定遅れた。自身のデスクに腰を下ろす。遅刻したら毎回小言を二つ三つ漏らしてくる上司だが、今日は何も言わない。なぜだろうか。
「あなたの職場はここですか」
「広い!」
「…眠い」
後ろに珍獣がいたからだった。
上司はみっつの頭でそれぞれ話すケルベロスを見つめて、目をしばたかせている。
俺が事務仕事に追われているあいだ、ケルベロスはずっと俺の後ろにいた。俺が連れてきたことは一目瞭然だ。
「わざわざ死ぬ間際まで働かなくてもよいものを、やはり日本人は律儀なのですね」
「それな!」
「…すごい」
なんかずっと喋ってるし。
「たしかに出勤しなけりゃよかった…」
今更そんなことを思っても、目の前の資料の山を前にそんな気にはなれない。ここで休んだら、他の人に仕事が回る。そうすれば、絶対に人から恨まれる。死後に人からの恨みを残すのはごめんだ。
「藤原さん」
とりあえず午後四時までにこの案件を終わらせとかなければ。明日以降の仕事、どうしようか。
「事務の藤原さん!」
どこからか呼び声がした。
「え、俺?」
「そうです。そのケルベロスはなんですか?」
“そのけるべろすはなんですか?”
一生聞かなそうな質問をされた。
「俺は地獄からの迎えです」
忠がやさしく答えてくれた。
「地獄、からの。あ、そ、そうだったんですね」
質問をしたのは経理の見たことある顔の人だった。忠のやさしき回答を前に、頭が混乱しているらしい。
「と、とりあえずこの職場はペット禁止ですからね!」
いや、ケルベロスはペットに入りますか?
経理の人は、捨て台詞を残して立ち去っていった。この会話はそれなりに人に聞かれていたようで、周りの視線が刺さる。いやケルベロスのせいでさっきからも刺さってたけど。経理の人が落としていったボールペンを拾って部署まで届けにいけば、ついてきたケルベロスを前に担当が声にならない叫びをあげた。
そうこうしているうちに昼休みに入ったので、俺はすぐに逃げの選択をとった。ケルベロスもついてきた。
逃げ込んだ先は、社の屋上。解放されていることはあまり知られておらず、加えて昼休みになったばかりの時間ということもあり静かだった。人はおらず、爽やかな風が顔を撫でる。
「仕事って大変だな!」
「…きつそー」
左吉、ミギが職場見学の感想を口にする。
「そうだ…」
囲い柵まで歩みよりながら、俺は答えた。
忠は、なにも言葉を発さない。何か考えているのか。
「……忠さん?」
俺は、少し不審に思って呼びかける。と、忠は、はっとした様子でこちらに焦点を合わせた。
「すみません、少し考えごとを」
「なに考えてたんだ?」
忠の左から、左吉がのんきに問うた。忠は少し俯いてから、俺のほうに視線を向けた。
「ええ…藤原はじめさん、あなたについて考えていました」
「お、俺?」
「ええ。あなたは、地獄送りにされるような人間には思えない」
忠の目がまっすぐに俺を捉える。
「今日のこんな日でも遅刻をしないように心がけている。死後に他人に仕事を残さないように全てこなそうとしている。経理のかたが落としていったボールペンを、拾ってわざわざ部署まで届けている」
そうでしょう、と忠はいった。
忠がそんなことをいうのなら、そうかもしれないが。
心当たりはたくさんある。いくらでもだ。
「忠さんは俺の人生の中でも、今日一日しか見ていない。俺が何をしてきたのか、知らないわけだろう」
「何を、されたのですか」
俺は拳を握った。
「遅刻はよくする。仕事はよく残す。ボールペンはたまたま拾っただけだ。それに、小三のときは友達との遊びの約束を三度すっぽかしたし、中二のときは厨二病を患って先生やクラスメイトに迷惑をかけた。高校じゃものすごい反抗期で親の胃を痛めさせてしまった。俺は、地獄に送られるべき人間だ」
過去の事を思い出すのは、正直つらい。してしまったことの後悔が、鮮明に蘇る。
忠は、俺を過大評価しすぎだ。
返事がないことに気がつき、俺は「おい?」と忠を呼びかけた。
「…藤原、はじめさん。あなたは、絶対に地獄にいくひとではない」
忠は呆れたような顔でそういった。
「それで、地獄にいくのを受け入れていたのですか?」
「え、っと、俺今これまでの罪を明かしたところなんですが」
「こういうことはたまにあります。とにかく、藤原はじめさんが大きな罪を犯していないことは前に調べてありました。だからこそ、私たちは藤原はじめさんがどうして地獄に落ちる判断を下されるに至ったのか、調べる名目もありきでここにきたのです。あなたが地獄に落ちないよう、閻魔にどうにか言わなければ」
○●○
忠の行動はすこぶる早かった。昼休みが終わる数分前には、閻魔からの返事も来ていた。
「藤原はじめさん。あなたは、ここで死ぬ人じゃないとのことですよ」
「よかったな!」
「そっかー」
忠、左吉、ミギがそれぞれ口を開く。
しかし、俺の心は軽くはならない。
「でも、俺、死ぬんだろ…」
「あ、間違いだって」
左吉ののんきな声に、俺はがばりと顔をあげた。
「……|本当《まじ》?」
「ええ。これは地獄側の失態です。大変、失礼しました」
忠はそういうと、勢いよく|頭《こうべ》を垂れた。
「い、いや、いいんだ……」
大きく息を吸った。いつのまにか、自分がものすごく安堵していることに気がつく。屋上の床にへなりこんだ。
俺、死なないんだ。
「というわけで、そろそろ私たちもお暇いたします」
忠がそう話しているのが、ぼんやり聞こえた。
死なない。そのことが、とても嬉しかった。財布の中を見る。4000円と小銭。このくらいあれば、あれもできそうだ。
俺は残りわずかの昼休みの使い道を決めた。
○●○
ミギは、おもむろに目を開く。どうやら自分は眠っていたらしい。体を同じくする兄の忠は、地獄へのワープゲートの場所を確認していた。ゲートは時間によって違う場所に出現するから、毎回の確認が必要なのだ。
「あれー…はじめは?」
ミギは、忠に問う。はじめと別れる寸前から寝ていたミギは、はじめがどこへ向かったかを知らない。
「藤原はじめさんは、このあと手持ちの財産を全部使ってやると意気込んでいた」
「なにするのー」
ミギは首を傾げた。地獄送りではなかった人というのは、たまに現れる。地獄側のミスが原因だ。死なないと言われた人の中には、喜びから競馬やパチンコやらにお金を注ぎ込みはじめる人もいる。
はじめも、もしやそうなのか。
「菓子パだよ、菓子パーティ」
「これから近所の駄菓子屋でたくさんお菓子を買いたいって」
ミギは微笑を浮かべた。
藤原はじめとは、そういう人間であるのか。
「おもしろい、ひとだね」
ミギは珍しく、微笑を浮かべていた。
はじめくんはいい子だね、っていう話です。シメがちょっとわかりづらくってすみません。
ちなみに三匹の名前の由来は、それぞれ忠が「中心」、左吉が「左」、ミギが「右」です。