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死神が視える医者
――今日も雨が降っている。酒井が初めて死神を視たのも、ある梅雨の日だった。
酒井は、大生国総合病院で働く医師だ。専門は、呼吸器外科だ。主に肺がん患者の担当をしている。
そんなある日、白を基調にした病室に、見慣れぬ黒灰色のローブ姿の影を視た。
その者は、目深にフードを被っていたから、口元しか見えなかった。
片手には金色の台に乗る蝋燭を持っていて、唯一見える唇から、その者は息を吹きかけ、火を消した。その瞬間、患者の心停止を告げる音が病室に鳴り響き、酒井は目を見開いて機器を見た。それからすぐに不審者に視線を戻した時、既にそこには誰も存在しなかった。かき消すように、あるいは幻覚だったかのように、消失していたのである。
以後――死の淵にいる患者の元に酒井が訪れると、必ず蝋燭を持ったその者が姿を現すようになった。いいや、正確には昔から存在していたのかもしれないが、少なくとも酒井が視えるようになったのは、ある年の梅雨の日だった事を、鮮明に記憶している。
何故死神だと分かるのか。
それはある時、蝋燭を吹き消そうとしていたその者に、酒井が話しかけたからだ。
その日も雨がしとしとと降り、病院の庭の紫陽花を濡らしていた。
「お前は、何者だ?」
すると驚いたように息を呑んでから、ローブの主は答えたのである。
「死神だよ」
「死神?」
「うん。この蝋燭は魂の火だから、僕はそれを狩って冥府に戻る。それが仕事だよ」
そう言うと、今度こそ死神は蝋燭を吹き消した。それを酒井は見守り、その後患者を看取った。それが契機だった。以後、酒井は死神に話しかけるようになった。いつも時間は一瞬だったが、一言、二言と、言葉を重ねていく。
「死神には名前があるのか?」
「僕はリュートという名前だよ」
リュートと名乗った死神が火を吹き消すから、すぐに酒井はもう助からない患者を識別できるようになった。何度か、死神を目視した時、救急に運ぼうとしたが、無駄な努力だった。死神が火を消せば、必ずその者は死ぬ。
「助ける事は出来ないのか?」
「――寿命を延ばすというのは、冥府の規則違反となるんだ。だから、それを行えば、僕は死神ではなくなる。僕もまた、人間と同じように、寿命ある存在になってしまう」
ポツリポツリとそんなやりとりを重ねていく。
ある日、火を吹き消そうとした死神に、酒井は歩み寄ってみた。そして手を伸ばすと、リュートの体には実体が無い事に気が付いた。
「死神には、触れないよ。本来、視える事も無いはずなのに」
「そうか」
淡々とした声で語る死神に、続けて酒井は聞いた。
「顔が見たい。フードは取れないのか?」
「それくらいなら出来るけど、どうして?」
「別に。理由はない。見たいだけだ」
酒井が告げると、蝋燭を片手に持ったままで、死神がフードを取った。
鴉の濡れ羽色の髪と瞳をしている。
整った顔立ちに、一時酒井は見惚れた。死神の年の頃は、十代後半から二十代前半くらいに見えたが、どこか老成した空気も醸し出しており、正確な年齢は判断が出来ない。
一方の酒井は、今年で三十二歳だ。医師としてはまだ若い。酒井もまた黒い髪をしているが、死神の髪のように漆黒の夜のような色彩ではない。酒井の髪と瞳は、死神と比較すれば腐葉土色と言うのが相応しいだろう。酒井は精悍な顔立ちをしていて、患者にも人気がある。
「リュート」
「何?」
「俺はもう少しゆっくり、お前と話がしてみたい。火を吹き消す以外の時間を取ってくれないか?」
「何を話すの?」
「それはこれから考える」
「別に構わないけど」
「では、明日。明日は、休みなんだ」
「僕は何処に行けばいいの?」
「そうだな――この病院の庭に、四阿があるだろう? 紫陽花が正面に咲いている場所だ。そこの窓から見える、ベンチがある場所だ」
酒井の言葉に、死神が窓の外を一瞥し、頷いた。そして、蝋燭の火を吹き消した。
――翌日。
待ち合わせの時間を決めるのを失念していたと気づいた酒井は、早朝から四阿のベンチに座っていた。本当に死神は来るだろうかと考える。すると、日が高くなってから、死神が正面に現れた。ベンチに座った状態で、最初からそこにいたようにも見えた。
「来てくれたんだな」
「うん。僕も、僕が視える君に興味がある。先生は、名前は酒井というんでしょう? 白衣の上に名札があった」
「そうだ。俺は酒井という」
酒井が名乗った時、雨が降り始めた。本日は梅雨の合間の晴れかと考えていた酒井だが、どうやら違ったらしい。そばの紫陽花を雨が濡らしていき、四阿の周囲のアスファルトは暗い色に染まっていく。傘を持ってこなかったなと、酒井は考えた。約束を取り付ける事と、ここへ来る事に必死で、天気予報も確認しなかったし、そもそもこの四阿は話す場所として適切ではないようにも思った。それでも沈黙したままよりはと、酒井は話題をひねり出す。
「リュート、死神について教えてくれないか?」
「うん。いいよ」
こうして二人は会話を始めた。
そしてこれは、二人の最初の逢瀬ともなった。何度も話をする内に、酒井は死神に惹かれていった。だから休日は、必ずと言っていいほど、死神を誘った。梅雨の間の休日、雨の中、いつも。きっかけは、ある日死神が寂しそうな色を瞳に浮かべた事だったのだと酒井は考えている。
「……僕だって、本当は、命を奪いたくはないんだよ」
辛そうにポツリと呟いた死神を見て、酒井は抱きしめたくなり、実行した。けれど死神に実体はやはり無く、酒井の腕は無いものを覆い、からぶった。すると死神が微苦笑した。
「ありがとう。酒井先生の気持ちだけで、嬉しい」
「リュート」
「なに?」
「俺は、お前が好きだ」
「っ」
「だから、辛い時も寂しい時も、俺で良かったら話してくれ。聞く事しか出来ないが」
真摯な眼差しで、酒井はじっと死神を見た。すると――死神が頬に朱を差した。その耳も赤く染まったのを酒井が確認した時、慌てたように死神はフードをかぶった。
「顔を隠さないでくれ」
「恥ずかしい事を言うから悪いんだ」
「なにも恥ずかしい事なんて、俺は言っていないだろう」
「……好きの意味を、誤解した」
両手でフードを押さえている死神を見て、酒井は首を傾げる。
「どう誤解したんだ? 俺は好きだぞ?」
「愛の告白みたいだった」
「? その通りだ」
「えっ」
「俺はリュートを愛してしまったらしい」
そう言って酒井が綺麗な表情で笑うと、死神が沈黙した。
フードの下の顔は、より真っ赤に染まっていた。
気持ちを告げられた事に満足しつつ、死神からの答えが無かった事に苦笑しながら、酒井は帰宅した。本日は、きちんと傘を持参していた。
――梅雨の雨で、スリップしたバイクが、酒井に突っ込んできたのは、その直後だった。
目を覚ました時、酒井はICUにいた。頭部と腹部、右足に治療痕跡がある事を自覚する。目はかろうじて見えた。その後コールを押し、複雑骨折した肋骨が、内臓を傷つけている事を聞いた。助かる見込みは非常に低いと、同僚の医師は言わなかったが、説明から酒井は理解していた。
その後しまったカーテン。一人きりの寝台の上で、酒井は死神の事を想っていた。
気配を感じたのは、まさにその時の事だった。
自由になる視線を動かせば、見慣れた黒灰色のローブが見えた。口元も見える。死神だ。会いたかった相手だが、酒井は苦笑してしまった。死神は、手に蝋燭を持っている。その火の勢いは弱く、今にも消えてしまいそうだった。だが、最後に会えるのが愛しい相手だというのは、ある種幸福だと酒井は考える。
「俺の命の蝋燭を消しに来たのか?」
率直に酒井は尋ねた。その声は、掠れていたが、僅かに笑み交じりだった。
すると――嗚咽が聞こえた。見れば、フードから見える肌に、水の筋が見えた。まるで梅雨の空からしとしとと流れ落ちていく雫のような、涙の線だとすぐに気づいた。
「別れを惜しんでくれるのか?」
「違うよ。僕は……規則違反をしに来たんだ」
死神が涙交じりの声でそう述べた瞬間、蝋燭の長さが伸び、火の勢いが強くなった。同時に、酒井は己の体が楽になった事を自覚した。思わず目を見開き、先程までは自由にならなかった右手を握ってみる。
「リュート、確か……冥府の規則があるんじゃなかったか?」
「うん。僕は、寿命ある者に変わってしまった。今の僕は、実体がある人間になってしまったよ。もう、神じゃない。死を司る者では無くなってしまったよ」
「どうして――」
「ずっと一緒にいたかったからだよ。僕も、酒井先生が好きになってしまったんだ。寂しかった、誰にも視てもらえない孤独だった僕に、話しかけてくれた先生の事が、大切なんだよ。好きなんだ」
涙声で語る死神を見ながら、酒井は自由になる……怪我が完全に癒えている上半身を起こし、それから床に立った。酒井よりも背の低い死神を、そのまま酒井は両腕で抱きしめた。いつか、からぶった時とは異なり、今度こそ、抱きしめる事が叶った。きちんとそこに死神は居たし、体温も感じる。
酒井は死神のフードを取った。そこには泣いている死神の顔がある。少し屈んで、酒井はその唇を奪った。すると死神が、驚いたように目を丸くしてから、泣きながら笑った。
その後周囲には、謎の快癒を驚かれた酒井だが、後遺症もなく、少しの休暇を経て仕事に復帰する目処もたった。復帰する日までの間は、これまでは一人暮らしだったマンションで過ごす事になった。けれど――今は、二人暮らしに変わった。
冥府が現世の戸籍に、死神のものを用意した結果、リュートは人としての軌跡を歩む事が決定された。そして今は、酒井のマンションで、共に暮らしている。戸籍上の名前は、隆(りゆう)都(と)となっていた。だから今では、酒井もそのイントネーションで名を呼ぶ。
「愛してるぞ」
「……僕も」
――その後。
二人は末永く共に暮らした。そしてまた、出会った梅雨が訪れる。隆都は、マンションの窓に手で触れ、雨の雫を眺めていた。すると後ろから、この日は休暇だった酒井が両腕をまわす。抱きしめられる幸せを感じながら。首だけで振り返った隆都に、酒井は迷わずキスをする。
その内に、雨がやみ、梅雨の合間の晴れた水色の空が現れた。
梅雨の晴れ間のそんな空は、二人の新たな関係を象徴するように明るい。
「いつまでも、抱きしめていたい。が――夕食だ」
「うん」
見つめ合ってから、隆都が微笑むと、酒井もまた笑顔を返した。
二人で過ごす日々は貴重で、互いの寿命が終わるまでの間、非常に幸せに続いていく。死が二人を分かつまで、幸せな日々が続いた。けれどそれは別のお話であり、今ここにあるのは、ただの幸福だけである。そんな二人の、ハッピーエンドの物語。その後も、幾度も季節は廻り、二人は出会った梅雨の季節を二人だけの記念日に決め、おそろいの指輪を購入する。それもまた、別のお話だ。幸せに浸りながら、酒井はゆっくりと瞼を伏せた。
―― 了 ――